第19話 2010年2月12日

2015年3月20日      STORY FOR 5 YEARS      Tagged with:



「こ、ここに押せばいいんだよね」

「そうそう。俺と琢也の下ね」

 

テーブルの上には広げられた定款。登記の際法務局に提出しなければならない書類のひとつである。

 

僕は三人の視線を浴びながら右手に小ぶりな印鑑を持って震えていた。ここまで何度も話し合って来たことだ、起業の決意が定まらないわけではない。いよいよ登記まで漕ぎ着けたか、などといった高揚による震えでもない。単に判子を押すのが苦手なのだ。

例えば前の会社の口座開設時は軽く五回以上は押し直した。人事の担当はうんざりしていたし正直僕だってうんざりしていた。押印ひとつとっても人には得手不得手があるものだ。

 

“みんな印鑑登録した実印持ってる?”

と本間君から全員に向けてメールが飛んだのがつい数日前のことである。

 

“もちろん”と琢也君が返す。

“持ってない”とミヤが返す。

“実印ってなんだったっけ?あるようなないような…”と僕が返す。

 

“起業時の提出書類で必要だから早急に準備してくれ!”

本間君は焦れったさ全面にメールでそう言った。慌てて僕らは自分の判子を確認し、こうして持ち寄ったというわけである。

 

まずは本間君が押し、続いて琢也君が押し、三番目に僕の順番が回って来た。失敗したら提出が一日伸びるかもしれない。どう考えても登記にあたりもっと他のところで緊張するべきであった僕は、自分の目にも間抜けに見えた。

 

 

先月末、本間君が「このまま会社をつくってしまおう」と言ってきたのは単なる思いつきではなかった。

宿業に方向転換する話が出たあたり、本間君はとある司法書士の先生と出会っていた。その方は主に若手の起業を応援しているらしく、僕たちにぴったりだろうということで知り合いづてに紹介されたのだ。どうやらその先生から奨めがあったらしい。

 

「何度か会って話をさせてもらう中で、俺たちの今の現状や、構想というか、自分たちのやりたいことを伝えたんだよね。そしたら『これは今のうちに会社を起こすべきだろう』ってさ」

 

本間君はそんな風にぼくに伝えた。僕は向けられた視線を逸らし少しだけ考えてから慎重に答えた。

 

「こんなこと言っちゃあれなんだけど、それって信用出来る話なのかな」

 

今のところ司法書士の先生に実際に会っているのは本間君だけで僕にはその人の人柄さえ分からなかった。それに、つい最近までごたごたを抱えていた僕らの状況が「今会社を起こすべき」だとはお世辞にも思えなかったのだ。

そんな僕の意図を汲んでか汲まずか、本間君は「うん、そうだよね」とでも言いたげに短く頷いてから話を続けた。

 

「実は最初に会ったときに『今まで沢山の人の思いを聞いたり事業計画を見てきたりしてるけど、これはまだ起業すべきじゃないと思ったら躊躇無くそう言うから。そのときは悪く思わないでね』って言われてるんだよね。それに、純粋に信用出来る人だと俺は思ってる」

 

そう言って本間君は「例えばあの人の場合は保留になってる」と共通の知人の名前を挙げた。僕は更に掘り下げて聞いてみることにした。

 

「なるほど。じゃあ逆に僕たちの場合はどこを推してくれてるんだろう」

「うん。先生が言うには、俺のやりたいことが明確に言葉に表せているし、なによりその手段となる“小規模低価格の宿泊施設”が堅実だって。訪日外国人の増加が数字に裏付けられてるのも大きいんだと思う」

 

本間君は十二月のうちから宿業を軸に据えての創業は本当に現実的か、たい焼き屋を僕たちに任せる代わりに一人で宿泊業と観光業についての調査をしていた。こう聞くとそれらのデータも信用に足る材料としてしっかり役立っているようだ。ふむ、と僕は短く唸った。本間君はそんな僕の様子を見て話を続ける。

 

「それで、実はもう先生と相談しながら事業計画を形にしていってる。日本政策金融公庫からの融資も検討していて、その為にも必要だしね」

 

本間君が都内のゲストハウスを訪問し、聞き込みによるおおまかな調査をした結果、ざっと算出された初期投資額合計がおよそ1000万円。一方、三月までで自分たちが貯められる金額が700万円ほど。ただしそこから二人分の世界一周費用を減算しなければならないため初期投資額にはさらに及ばなくなる。

 

「聞いた話では公庫(日本政策金融公庫)が融資してくれるのは最高で資本金の倍額ぐらいまでらしい。公庫は保証人無し担保無しでまとまった額の融資を受けられるメリットもあるし、新規事業を起こしてもらうための応援制度みたいなものもあって銀行ほど実績を重視しないようなんだよね」

「つまり会社としての実績がない僕らでも、例えば世界一周費用を抜いた500万円を資本金にした場合には最高で1000万円の融資を得れる可能性がある?」

「そう。そんで実績が無い分、事業計画が判断材料として重要になってくる、と」

「なるほどね」

 

たい焼き屋の売上げが下がり続けているので、いつ店を閉めるかという問題も真剣に考えねばならないだろう。そうすると今の収入源は完全に断たれてしまうし、おそらくそれと前後して物件探しも始まる。物件を契約したあとには改装工事も控えているわけで、そんなに遠くない未来に多額のお金が必要になってくるはずである。

融資が下りるまでにどれだけ時間がかかるかは分からないが、初期投資額が貯金額を上回っている以上、なにかしらの形でのお金の工面が必要だ。その意味でも公庫からの融資を見据え、無駄に経費を使ってしまう前になるべく多くの資本金で以て起業をした方がいいのだろう。

司法書士の先生の言う通り、これ以上はタイミングが遅くなるばかりなのかもしれない。

 

「大筋は納得出来た…と思う」

「私も」

 

僕と本間君が話をしている間にミヤが帰って来て主旨を追っていた。質問があれば聞くタイプなので本当に納得したのだろう。ミヤの尻込みのしなさというか「やるならやりますよ」という姿勢には恐れ入る。

 

「琢也には俺から話しておく。そんなわけだから、俺は会社を作る方向でこのまま動きます。片手間じゃなくて全力で。早ければ二月の上旬には登記出来ると思う」

 

登記と平行して収益見込みと事業計画を作成する旨を告げて本間君は作業へと戻っていった。そんな風に会社登記に向けての準備ははじまり、本当に一週間ほどで、あとは必要書類を揃えるだけの状態になっていた。

 

 

「ふぅ」

 

なんとか失敗せずに判を押し終わって僕は心から息を吐いた。駅伝に出たことはないが、無事順位を落とさずにたすきを繋いだ気分である。ちなみに次の走者のミヤは息ひとつつかず最終区間を駆け抜けた。

 

「なんつーか、こう、かっこつかねえなあ」

 

押された書類を見て、本間君が僕とは違った種類の溜め息を漏らした。改めてその頁を見てみれば理由はすぐに分かった。本間君や琢也君は大きいサイズの立派な判子で、書体も印相体というのか篆書体というのか風格のあるもの。一方僕とミヤは普通のサイズの普通の判子で書体も何の変哲もない平凡なものであった。

 

「うーん、竜頭蛇尾」

「バランスが悪いよね」

 

主犯の二人が口々に言うのを本間君が「おーい」と呆れたように呼びかけてその場を収めた。

 

「とりあえず次いこ。いっしー、突然だけど取締役と監査、どっちがいい?」

 

気を取り直して言う本間君の方を向き話を聞く。

株式会社では、三人の取締役と監査がいれば取締役会を設置できるのだという。僕たちは四人なのでその条件はクリアでき、琢也君と本間君は取締役ということで決定しているようだった。

よく分からない部分もあったので所々質問を挟んだが、最終的には本間君も「まあ、とにかくそういう決まりになってるんだよ」と答えた。琢也君がそんな僕らのやり取りを訳知り顔で聞いていたけれど、僕の勘が正しければたぶん彼もよくわかっていないはずだ。

 

「とにかく、取締役か監査だよね。うーん。取締役、って似合わなそうだから、そしたら監査なのかなあ?」

「おっけー。じゃあいっしーが監査ね」

「ごめん、ちょっと待って。やっぱりもう少しなにか説明書きみたいなもの読みたい」

 

あまりに躊躇なく本間君が書類に書き込もうとするので随分慌ててしまった。みんなどうしてこうも躊躇しないのだろうか。ひょっとすると神経が脳まで届く前に折り返しているのかもしれない。

 

「そしたらここかな。ここ読んで」

 

本間君が指し示した箇所を読み進めていくと“監査については会計に関するものに限るとする”という触れ書きを発見した。

僕は「ここなんだけど、」とその部分をみんなに見えるように指差し、情けないながらも思ったことを正直に話すことにした。

 

「ここがちょっと不安かも。会計というかお金の仕組みというか」

「いっしーは数字弱えけんな」

 

琢也君が僕より先に言う。ここまで明け透けに言われるとさすがに傷つく。が、本当のことなので仕方が無い。

 

「…なるべく頑張りはしますけれども」

「ふんふん、了解。じゃあいっしーは取締役、ミヤが監査ってことでいい?」

「私はなんでも」

 

ミヤの態度はまさに長者の余裕であった。自分がいっそう恥ずかしい。…しかし考えても見ろ。僕の恥ひとつで会社の会計監査に関する将来が守られたと思えば安いものだ。僕がたった一瞬監査であった間にした最初で最後の勘定であったのだ。むしろ非常にいい仕事をしたと言える。

 

「じゃあこことここ、それからここにサインと押印ね」

 

本間君はそう言っててきぱきと僕たちに指示を出し、またひとつ提出書類が出来上がった。

 

「じゃああとは俺の方で届けを出してくる。不備が無ければ明日か明後日には会社が出来てる」

「出来てる…?」

「はず」

 

本間君ははにかむように言った。まあ当然と言えば当然だ、初めての作業なのである。「だよね」と言って僕は笑った。

 

「今回のこと、なんだか任せっぱなしになっちゃって悪いけど」

「いやいや、俺のこそ店の方を任せてて申し訳ない」

 

本間君はすこし悪びれた風にした。忙しそうにはしているものの、実際本間君は生き生きして見えた。

 

 

次の日、もうすぐ日も暮れようかという時分、僕は大学時代の先輩でもある勇人先輩と高尾のカフェに居た。勇人先輩には僕の代わりに町田店の店長を任せることになっており、今日はその段取りについて話をしていた。話のキリがいいところで「ところで、会社は出来たの?」と勇人先輩が切り出した。

 

「ちょうど今本間が書類を出しに行っているところなんですよね。もう帰って来てもおかしくないと思うんですが…」

 

僕は本間君に電話を入れてみることにした。しかし本間君はその電話には出ず、数分経ってから折り返しがあった。

 

「あ、もしもし。どこだ、これ…?」

 

電話先からくぐもった本間君の声がする。どうやら八王子にはまだ帰って来ていないようである。

 

「ああ、うわ、そうか。電車で寝てたら今横浜まで来ちゃった」

「最近あんまり寝てなかったもんねえ」

 

横浜ということは八王子に帰ってくる電車で折り返して反対側の終点まで行ったことになる。疲れも溜まってか、その間ずっと寝てしまっていたのだろう。

「…それで、どうだった?」

 

多少唐突ではあると思ったが僕は率直に聞いてみる。本間君だって何を聞きたいかは分かっているだろうし、今電話で話すことと言えばむしろそのことしかなかった。

僕の質問に対して「登記なんですが、」と本間君はわざともったいぶったように話し始める。その言い方にはすでに若干の落ち着きが含まれていた。

 

「無事、完了しました〜!」

「おお、おめでとう!」

「とにかくこれから八王子に帰って夜改めて報告します」

 

了解、と言って僕はその短い電話を切った。いやあよかったよかった、とちょっとした余韻に浸る。そんな僕を見計らうようにして、終始横で聞いていた勇人先輩が「石崎さ」と控えめに声を掛けきた。

 

「自分の会社なのにおめでとうって」

 

確かに。いまいち実感の湧かない僕なのであった。

 

 

夜の報告会では、本間君がリビングの入り口側に立ち、僕たち三人が彼に向かうように扇状に並んだ。

 

「先日書いてもらった書類を提出しに今日法務局に行ってきまして、無事、会社の登記が終わりました!」

 

お、とミヤが小さく声を漏らす。琢也君の方も伺ったが琢也君は別段表情を変えない。もしかしたらうまく伝わっていないのだろうか。「と、いうことは?」と僕が試しに合いの手を入れてみる。本間君が待ってましたとばかりにそれに応える。

 

「株式会社Backpackers’ Japan、ここに誕生でーす!」

 

しっかり長音つきの、陽気な発表。とここでようやくイエーイ!とミヤがそれに反応してぱちぱちと手を打ち、僕もおなじく拍手をした。琢也君も相変わらず無表情だったがとりあえず合わせて拍手をしていた。

一度しかない、記念すべき会社の誕生にしてはいささか寂しい気がしないでもなかったがまあでもよく考えてみれば他の会社の誕生の瞬間に立ち会ったことなんてないわけだしみんな案外こんなものなのかもしれない。本間君は安堵と嬉しさ半々といった表情だった。

 

改めて机の上の書類を見てみると、「株式会社Backpackers’ Japan」の文字が表紙を飾っている。本間君が「だって分かりやすいじゃん」という理由で付けた名前だった。

 

「まだなんとも馴染まないね」

 

ほんの少し笑いながら僕はそう言った。買ったばかりで誰にも見せたことがない服のような気恥ずかしさがある。「まあだんだんね、しっくり来るでしょう」と本間君が答えた。

 

「ここにTrip Box Senceって書いてあったかもしれんわけやな」

 

僕の方をちらっと見るようにして琢也君が言った。Trip Box Senceは琢也君が会社名として提案した名前である。なんというか、実に琢也君らしい名前ではあるが、琢也君以外の三人はその名前が表紙を飾ることがないことは初めて聞いたときから分かっていた。

「いっしー、すげえ事に気付いてしまった。俺の名前、略すとTBSになる…!」と人の部屋まで入って来て報告したときのあの嬉々とした表情を僕はこの先もたぶん忘れまい。

 

「さて、では報告も終わったことだし、ちょっとこの先のスケジュールを確認しておきますか」

 

OK、了解、と僕らはそれぞれ言ってテーブルを囲むようにして座った。

 

差し当たって、三月の一日から僕と本間君が国内のゲストハウスを訪問して回ることが決まっている。宿は必ず都内で開業すると限定しているわけでもないので、市場調査という名目の下には実際日本を旅行してみて土地を見てみるという意味合いもあった。外国人とはなるべく仲良くなり、日本の観光やその土地のことを直接聞いてみようと思っていた。

 

国内の調査は四月二週目までの五週間。僕が東京から東周りで北海道まで行き日本海側を下って中部地方を経由したのち京都大阪へ。本間君は西向きの主要ルートを辿るため大阪、広島を経由して福岡から九州四国を周り京都へ戻ってくるような形にした。

視点を擦り合せるのと一大観光都市だからという理由で、東京と京都は二人で同じ場所に宿泊して話し合いをしようという話になった。

 

僕たちが東京に帰って来てからは、実際に物件探しをする土地と条件を定め、四人で今後の方向性を決める期間を一週間取ることにした。その後四月十五日からミヤと琢也君が世界一周に出発。僕と本間君は同じタイミングで物件探しを開始する。たい焼き店はそれまでに四店のうち二店舗を閉めさせてもらうよう専務に相談しようという運びになった。

 

全員で確認してみるとなかなかに詰め込まれたスケジュールである。

半月後には日本調査、その一ヶ月半後には世界一周と物件探し。この一年があまりに濃く忙しかったため一ヶ月という期間が短いのかそれとも長いのかはほとんど分からなくなっていたが、計画が動き出しているという実感は確かに僕らを時めかせていた。

 

結局Backpackers’ Japanとしての一日目は乾杯もせずにこの先の計画ばかりを話した。

会社が出来たという事実に後押しされたのかもしれないけれど、結果的にそれは僕たちにとって相応しいはじまりだったのだと思う。

 

 

*これらの記事は当時書かれていブログや日記を元に新たに書かれています。