初めて入谷駅に降り立つ。東京に住んでいちおう三年目になるけど、駅名を聞いてもなにも思い浮んでこないぐらい、まったく馴染みがない。

「どう、『入谷』」

ゲストハウスの物件探しが始まってからというもの、新しい駅に降りるたびに僕は本間君にこの質問をしていた。町や駅の響きに好き嫌いがあるらしいのである。「押上」は好き、「日暮里」はあんまり、とかそういうごくごく個人的なやつだ。名前なんてそのうち馴染むしなんでもいいと思うのだが、本間君にとっては重要らしい。

始めは「はいはい」という気持ちで聞いていたが、あまりに好き嫌いがはっきりしているので僕もだんだん聞くのが面白くなってきた。

「『入谷』?ふつう」

「あ、そう」

そういうパターンもあるのね。

 

階段を上って地上へ出ると早苗先輩が待っていた。「やあ」と手を開いて挨拶する先輩。

「おっすなえちゃん」

「こんにちは〜」

早苗先輩は僕らの大学の先輩で、同じくゲストハウス開業を目指して都内で物件探しをしている。大学一年の頃に出会った本間君とゲストハウス物件を探している同じタイミングで、同時期に出会った大学の先輩も、偶然別口でゲストハウス物件を探しているというのはなかなか面白い事態だった。

ちなみに、本間君はあるときから早苗先輩に対してタメ口になったようだが僕はずっと敬語のままである。

「ひとまず行こうか」

「不動産の担当の人は物件前で待ち合わせだっけ」

「ですね、時間もそろそろですし」

物件に向かって三人で歩き出す。今日これから見に行く物件は、元々早苗先輩が見つけたものだった。「私が一人で運営するには物件自体が大きすぎるから」という理由で内見せずに却下するところだったが、その前に僕らに教えてくれたのである。先輩もどんな物件か興味はあったようで、今回は三人で見に来ることになった。

 

駅から歩いてすぐに低層の住宅と路地で構成されるエリアに入る。周りの建物は昔ながらの古い家屋が多いようだけれど、これまでに見てきた墨田や谷中とはまた雰囲気が違う。

「暮らし」というより「生活」という表現がしっくりくるような普段着の街。そのぶん、歩いてみただけでは町の魅力はあまり感じられない。

しかも上野から一駅とはいえ、僕らが物件探しの条件で出した「観光資源、またはトランジットになる駅」にぴったり当てはまるとは言いづらい。浅草や押上、また空港からの電車が直接接続する上野や日暮里と比べるとどうしても劣ってしまう。

 

物件の前まで辿り着くと不動産の担当者がいた。

正面から見た物件は、まあ普通。なんの変哲も無い白塗りの建物だ。入り口は小さい。

入口の鍵を開けてくれ「どうぞ」と中に案内されて入るが、やはり広くない。クッションフロアが敷かれた1階と、右手側の階段から上がれる2階が同じ広さだとして合わせて70平米ほどか。

「んー。いいですね」

本間君が担当の方に言う。「普通です」もしくは「あまり良くないです」という意味の「いいですね」。ただの相づちのようなものである。

そのことに気付いたのかどうかはわからないが、担当の方は困ったような笑いをわずかに浮かべて「ええ、ただこちらだけでなくて」と僕たちの前に立った。

「この扉の奥、こちらが母屋になるんです」

そう言って、僕たちが入ってきた扉とは反対側のドアを開けた。

目の前に飛び込んできた風景に僕らは圧倒された。出来てどれぐらい経つのだろう、古く、しかし立派な木造の日本家屋。そのうえ、飛び石や池、灯籠が配置された日本庭園風の庭が家の敷地と同じぶんぐらいある。おそらく何年も手入れされていないのだろう、その庭は、鬱蒼と茂った植物たちに隠れるようにして存在していた。

僕らがいま通ってきた正面の建物を含め、四方が他の家に囲まれているため、この日本家屋は外側から見ることが出来ない。まるで人目から逃れるように存在している庭と古民家。これまで物件探しをしてきたエリアに限らず、東京のどこでも見たことが無い景色。まだ家の中にも入っていないというのに、僕たちはこの風景にすっかり心を奪われてしまった。

 

「元々は貸し主でもある『東京眼鏡会館』の会合などで年に数回利用されていた建物なんです。長い間住みながら管理をされていたご夫婦がいらしたんですが、その方ももうお年で」

「なるほど、更にその前、大元はなんの建物だったんですか?」

玄関で靴を脱ぎ廊下を歩きながら話を聞く。家の奥へと続く廊下は目立った老朽も感じられない。

廊下の右手側は襖で仕切られた大きな和室。左手側には庭を見ることができ、廊下と外を木製のガラス戸が区切っている。戸を開け放てば庭を臨む縁側のようにも使えそうだ。

「それが諸説ありまして、はっきりとしたことはわからないんです。建てられたのも、戦後すぐという話もあれば大正時代という説もあって。ただ、専門の人に見てもらったところ大正時代の方が真実味がありそうでした」

「どちらにせよかなり立派な家ですよね」

台所や風呂、階段のつくりを見ても空間に余裕がある。書院造りの和室や板の間付きの和室、更に洋間まであって内部で言ってもこれだけ贅沢なつくりの古民家はやはりそうそう無いように思えた。下町の古い家といってイメージするものとは全く違うし、ここなら建物の魅力を生かした宿にできるかもしれない。

 

「どうでしょう、これぐらい広く、古い建物となると、使い方はなかなか難しいとは思うんですが……」

「ふーん。なるほど、そうですね」

本間君が腕を組み渋い反応をする。けれど、これは前面の建物の反応の時とは、たぶん逆。わざと渋い反応をしているのだ。

試しに担当者の後ろを歩く本間君を小突くとこちらを見て目配せをしてきた。「了解」と思う。この物件をゲストハウスにする現実味が増し、僕は静かに興奮した。

 

これまで谷中や押上で内見した物件も、いいなと思うものはあった。不動産屋を訪れる正攻法だけでなく、電気メーターをチェックし、完全に停止している家の持ち主を隣家に聞き込むという方法も試した。この方が気に入った物件が見つかるからだ。それでも見つけられた物件は「まあまあいい」くらいのものであった。なんとかできそうかな、というぐらいの感触。

しかし今日見ているこの物件はそれとは圧倒的に違う。ここは人を魅了する建物だ。

 

本間君の渋い反応は、むしろ興奮を隠すためのものだろう。創業まもない会社で、外国人を含む不特定多数が宿泊する事業。「ゲストハウス」の認知度も低い。まだ24歳と年齢も若い。ただでさえ不安定な要因ばかり抱えている僕たちは、契約で関わる相手に浮き足立った印象を与えたくない。

担当の方の様子を伺うと、物件に対して少々弱腰であるように見えた。構造上飲食店としては使いづらいし、居住するにしても規模的に借り手のつきやすい物件とは言い難いだろう。痛んでいるところの手直しも必要そうだ。

つまり、こちらとしても借りることに関して慎重な態度をしておいた方が、今後の交渉がしやすくなりそうだった。

 

そのまま家を見回って、庭を見て、もう一度最初に足を踏み入れた前面の建物まで戻ってきた。母屋ありきで考えると、こちらの建物も使いどころは工夫できそう。

「オーナーさん側では、母屋の方を借りて頂けるならこちらの建物を潰して駐車場にするなどの方法も検討出来るようです」

「もろもろ、検討させて頂きます」

ありがとうございました、と担当の方に伝え僕らは物件を後にした。再び三人になるやいなや、早苗先輩が喜色満面に質問をしてきた。

「いやあ、すごかったね。どう?」

にこにこ、というかにやにや、というか笑みを隠さずまっすぐに聞いて来るところが早苗先輩らしい。

「うん、ちょっと考えてみる」

本間君はなおも冷静。僕はどうしようか少し悩んで、それでも早苗先輩に聞いてみることにした。

「先輩、改めてなんですが、本当にあの物件、僕たちに紹介してしまっていいんですか?」

きっと、同じような建物に出会えることはこの先ないと思っていいだろう。この物件を見つけたのはあくまでも早苗先輩だ。実際見てみて、やはりあそこでやりたいと思ったかもしれない。緊張感のある質問だったが、ここで改めて了解を得るのが義理だと思う。

「いやあ、興味本位でついてきてはみたけど、物件見て、ああやっぱりこれ一人ではできないなあって」

早苗先輩はてへへ、という感じで笑った。それ以上はなにも、という返答だった。

「なえちゃん、本当にありがとう」

「うん。また話が進む時は教えて〜」

そう言って早苗先輩はひらりと身を翻し帰っていった。二人になって、僕らは言葉を探す。

「とりあえず、コンビニでも行く?」

「そうしよう」

入谷駅から離れて、鴬谷に向かう途中のセブンイレブンに入る。飲み物だけ買って店を出て、僕らは壁にもたれ掛かった。

「いやさ」

「いやあ、ね」

お互い向かい合ったところでつい表情が緩む。

「めちゃくちゃよかった!」

「めっちゃくちゃよかったー!もうあそこ!絶っ対やりたい!」

「いやあすごい!やりたい!あれ出来ちゃったりしたら本当に嬉しい!」

「物件取得出来るかどうかはオーナーさんとの話し合いによるだろうからまだ分からないけどね、ちゃんと狙い定めてしっかり交渉しよう!」

抑えの利かなくなった僕らであった。

物件探しを初めて二週間、奇跡的に良い物件に出会う。本間君が隣でガッツポーズを取る。僕もほぼ同時に同じポーズを取っていた。