COLUMN

住むこと、生きること、選ぶこと。暮らしとはいったいなんであるのか──コトバノイエ加藤博久×Backpackers’ Japan石崎嵩人 それはほんとうはなんであるのか vol.3

加藤博久 1955年生まれ、68歳。石崎嵩人 1985年生まれ、38歳。ちょうど30歳ぶん年の離れたふたりが、世の中でごくふつうに使われている「ある言葉」を取り上げ、その意味についていま一度考えを深める対話「それはほんとうはなんであるのか」。

3回目となる今回は「暮らし」をテーマに、大阪・Hotel Noum OSAKAからお送りします。

加藤 博久(かとう ひろひさ)
1955年滋賀県生まれ。BOOKS+コトバノイエ店主。
2005年、ある建築家との出会いをきっかけに家を建てる。家を建てたことがきっかけとなり、自宅を古書店としてオープンさせる。本をきっかけに訪れる人達と店主との間に、色んなことが起こり始める。イエを飛び出して、本を出張させることもある。

石崎 嵩人(いしざき たかひと)
1985年栃木県生まれ。Backpackers’ Japan取締役CBO。
2010年、友人3人とともにBackpackers’ Japanを創業。会社や事業のブランディングやクリエイティブディレクションを担当。個人の活動として文筆や出版も行う。

石崎 今回は「暮らし」について加藤さんと話したいと思ってるんですけど、いかがでしょうか。

加藤 “Living”だね。「暮らし」という言葉の使われ方についてはぼくも日々思うところはあるよ。それに、ぼくから見てると若い人たちの暮らしへの関心は、ぼくたちの頃よりずいぶん高いなあっていう気がするんだよね。ぼくらはどっちかっていうと「生きる」的な意味だから。

石崎 この違いがまず面白いなあ。ぼくは「暮らし=Living」とも「=生きること」とも捉えてないですもん。

加藤 きっと、見えてるものが少し違うよね。イッシーはどうしてこの言葉が気になったのかな。

石崎 個人的な話なんですけど、4、5年前まで、自分の日常を指して「暮らし」とは呼べなくて。この言葉が自分には合わない、馴染まないと思ってたんですね。じゃあなんと呼んでいたかというと、「日々」とか、「生活」とか、そういう言い方の方がしっくりきていました。

加藤 うん、うん。

石崎 「生活」の方が平坦で無味無臭な言葉に思えて、それが自分に合っていると。けど最近は自分の日常のことを「暮らし」と呼べるようになっていて。実際に使ってみると「暮らし」が持つ言葉の感触もいいものだなと感じています。

加藤 なんでいま「暮らし」が使えるようになったかは解明できたの?

石崎 ちょっと恥ずかしい話でもあるので、あとで話そうかな(笑)。語義にいったん触れておくと、「暮らし」の語源は「暮れる」じゃないですか。要は日没までのさまざまな営みを指しますよね。畑仕事をしたり、川で洗濯をしたり、芝を刈ったり……昔話のおじいさんおばあさんが日々やってるような。

加藤 うん、そうだね。

石崎 そう考えるとたしかに“living”的ですよね。けど、いま世間一般で流通している「暮らし」はliving以外のニュアンスを多分に含んでいるように思えます。

加藤 それで言うとね、例によってなんだけど、「暮らし」がある意味でマーケティングタームとして使われていることがぼくはすごく気になるんだよ。たとえば『暮らしの手帖』の一般的なイメージでもあるのかな。生活や生き方にまつわるさまざまなものを総括して、ちょっと甘い、スイートな言葉として使われているよなと感じるんですよ。

石崎 「甘い」ですか。

加藤 語源に立ち返ればそんなもんでないことはわかる。けど、言葉の使われ方として、「らしさ」や「自然」と同じように、ちょっと違和感があるんだよね。

石崎 たしかに、言われてみれば納得できます。ぼくがいままで使えていなかったのは「暮らし」がちょっと高尚なものに思えて、それが自分と合っていないと感じていたからでもあるんです。それが加藤さんの言葉に置き換えると甘いってことなのかもしれない。

加藤 うん、そういう感触がきっとあるよね。

『暮しの手帖』が指し示していたもの

石崎 『暮らしの手帖』の話題が出ましたけど、暮らしの手帖自体がその甘いイメージを先導しているわけではないですよね。あれはいつごろ創刊の雑誌なんでしたっけ。

加藤 もう、ぼくが生まれた頃にできた、ぼくたちの親世代の雑誌ですよ。戦後すぐ、初代の編集長、花森安治さんたちが中心となって立ち上げたんだけど、あの雑誌は「庶民の暮らしをちゃんと健全なものにするために必要なんだ」って意味を込めてつくられている。

石崎 健全なものにする、ですか。

加藤 そう。暮らしの手帖って、広告がいっさい無い雑誌なんですよ。スポンサーからお金をもらわずに、雑誌を売ることだけで成り立っている。なぜそうしたかっていうと、暮しの手帖の本分は、製品テストなんだよね。

たとえばテーブルランプを取り上げるとしたら、各メーカーのランプを調べ上げて、テストを重ねて、その商品のなにがよくてなにがよくないかを徹底的に洗い出す。

石崎 へえ!


(暮しの手帖 november december 1976, 6・7 2003 | 暮しの手帖社)

 

加藤 戦後すぐの時代って、特に電化製品なんかそうだけど、いろんなメーカーがいろんな製品をたくさん売り出して、みんなそれを買うんですよ。もともと持ってなかったわけだからね。で、売るためには広告を打つでしょう。広告はある意味であらゆる売り文句を使って購買者を惑わすためにあるわけだけど、暮しの手帖は、どこにも忖度せず、客観的に、いち市民が正しいものを長く使えるよう徹底的なテストをした。広告を取らないっていうのは、忖度なしで客観的にテストするための方法論でもあったわけ。

石崎 情報も商品も玉石混交な時代において、家電を中心とした、生活にまつわる正しいものをちゃんと選び取ってもらうための本だったんですね。だから「暮らしの」ための「手帖」なんだ。

加藤 みんながものに憧れた時代だから余計だよね。花森さんの使命にも背景があって、あの人は戦時中、国策のための広告づくりに関わっていた。「自分は戦争に協力した」「軍隊や国の思うままに戦意高揚のためのメッセージをつくってしまった」という反省から、今度は庶民の暮らしを正しくつくることに目が向いていったんだろうね。

石崎 そんな背景があったんですね。暮しの手帖が創刊した時代は、いまよりももっと、どうちゃんと生活するかがどう生きるかと結びついていて、そのために何を選ぶのかは切実だったんだ。よくないものを選んでしまうことはちゃんと生きられないことだった。

加藤 話しながら思えてきたけど、言うなればそれこそが暮らしだよね。世の中の商業やトレンドから実はちょっとかけ離れたところに生活の実感みたいなものはあって、ものを選ぶにしても、自分のスタイルを選ぶにしても、触れ込みの情報に惑わされずに生きるってことが本来の意味での暮らし、暮らしの手帖が指し示した暮らしなんじゃないかな。

「丁寧さ」なんてラベルを貼らずに

石崎 暮らしの手帖に関連してなんですが、現在の編集長が就任された際の「丁寧な暮らしではなくても」が話題になり、その言葉に込めた意味についていくつかのメディアで話されているのをいまでも見かけます。

(参考)
「丁寧な暮らしではなくても」……「暮しの手帖」新編集長がチャレンジングなフレーズに込めた思い(文春オンライン)
暮しの手帖75周年…編集長が「丁寧な暮らし」に反旗を翻した理由(読売新聞オンライン)

これって「丁寧な暮らし」というフレーズが世間に広がるのと同時に、好感だけでなく批判を呼んで膨張していった結果なのかなと思っています。その現象自体はわかりはするんですよ。さも正しいかのように掲げられた「丁寧な暮らし」に傷ついたり、プレッシャーを感じたり、いけすかなく思ったり、消費を煽っていると感じた末の批判的な態度なのかなって。

加藤 そうだね。

石崎 でも、だからと言って「丁寧な暮らし」をいじり続けるのはどうなの? って思いませんか。具体的な誰かの暮らしを指して言ってるならなおさら。最近は少なくなってきたのかもしれないけど、何年も何年も、ずっと「丁寧な暮らし(笑)」みたいなことをやってる。友達の家の様子を見て「はい、出ました丁寧な暮らし!」って揶揄したり、大盛りのカップラーメンの写真をSNSに上げてハッシュタグで #丁寧じゃない暮らし って。別に自分も他人もそれぞれ好きに暮らしたらいいじゃんって。

加藤 それだけ「暮らし」が人それぞれの生活に根付いていることの現れかもね。だから違いが気になってしまう。まあでも、イッシーが気になっているのは、言葉に対する矜持についてだと思うけどね。つまり、「人を貶めるためにどっかから拾ってきた言葉を都合よく使うなよ」って意味で嫌気が指してるんじゃないかな。

石崎 そうですね。「『丁寧な暮らし』って表現好きじゃないんだよね」っていう意見ならまったく気にならない。ぼく自身も自分の好みには合わない表現だなって思うし。でも他人を嗤うような言い方で使うのは、なんていうか「つまんね〜」って思う。

たとえばある人が「丁寧な暮らし」なんて意識せず、ただ自分が気持ちいいと思うものを集めて暮らしてるだけだとして、なんで他人に「ハイハイ丁寧な暮らし(笑)」なんて言われて笑われなきゃいけないんだろうって思うわけですよ。もしかしたらなにかが癪に触ったのかもしれないけど、ただ好きに暮らしてる人に対して、ちょうどよく人を擦れる言葉を使って気持ちよくなってるのだとしたら品性下劣だと思うし、そんな言葉を投げかけることを面白がらずに自分の好きな暮らしをしなよって。

加藤 偉いなあ。おれはときどき特定の人に対して「丁寧な暮らし」を使って揶揄するもんね。

石崎 えーっ!

加藤 まあ、もちろんギャグのつもりですよ。

石崎 いや、そうですよね。ぼくがただ面倒臭いやつだってことなのかもしれない。ただのギャグなのに真面目に捉えすぎ、みたいな。

加藤 でも、それでいいと思うよ。そこでどうしても気になってしまうのが、それがイッシーなんだから。それに、「好きに暮らしなよ」「みんな好きにやったらいいよ」っていうメッセージはとってもいいなと思ったな。

石崎 はい。

加藤 ぼくはね、そもそも「丁寧じゃない暮らしなんてあるの?」と思うし、逆に「雑な暮らし」だって存在しないと思う、みんながんばって暮らしてるんだからさ。どっちにしても「ラベル貼り」はよくないってことだよね。

石崎 そう、そうですね。そうですよね。

加藤 やっぱり、「自分の頭で考えなさいよ」ってことだと思う。「自分も『丁寧な暮らし』がしたいな」と思って家具をそろえたりしてるならそれも違うし、小ぎれいにしている友人の部屋を見て「丁寧な暮らし(笑)」と揶揄するのも違う。でもね、みんなついやってしまうんだよね。そっちの方が簡単だから。

石崎 ぼくは本当に「『丁寧な暮らし』がしたい!」と思って、自分でそれが心底気に入ってるならそれはそれでいいと思う。いつか虚しくなったら本末転倒だし、そういうこともありそうではあるんだけど。そしたらそこからまた好きな暮らしを見つけていったらいいし。

加藤 やっぱりね、ぼくは「丁寧な暮らし」の世間的な通用の仕方には商業主義的な悪い部分が詰まってるように思いますよ。その言葉自体が悪いわけじゃないけどね。でもほんとは暮らしには丁寧も丁寧じゃないもないと思ってるから、そういう意味でぼくはその言葉はあんまり使いたくない。モノを売るための修飾やラベリングに加担したくないから。

衣食住より上位にあるもの

加藤 今のような話も、初めに話した“若い人たちの「暮らし」への関心はずいぶん高いなあっていう気がする”ってことに関連しているように見えるんだよね。たとえば食べることや住むこと、つまり「衣食住」についての関心だよね。そもそも衣食住に対する周囲の情報が多いっていう要因はあるんやろうけど。

石崎 加藤さんはあまり関心がない?

加藤 よりよく暮らしたいとは思うんだよ。でも、そのディティールの「衣食住」をよくしたいかに関心があったかというと、特に30代の頃はぜんぜんそうではなくて、どっちかっていうと、「どこに住もうがなにを食おうが、自由にやってられたらええやんけ」と思ってた。

それに、今の世代とは、関心だけじゃなく、使うお金のバランスも全然違うんじゃないかなと思う。たとえば、おいしいものを食べにいくとか、いい家具買うとか、いい調理器具買うとか、それに使うお金の割合が、いまの若い世代の方が上がってるんじゃないかな。優先順位の違いっていうか。

石崎 それはありそうですよね。食べるものも着るものも家具も、いまは単なる生活必需品の域を越えて嗜好品的になってる。何を選ぶかが自分を表す、みたいなことも起きてそう。これは初期の暮しの手帖の「暮らしとは健全なものを選ぶこと」の思想とはちょっと違いますよね。

でも、それが例え嗜好品であっても、情報の多い世の中で自分に似合う服を買ったり、自分が気に入った家具を買ったりすることは幸福感に繋がっているんじゃないかなって。おいしいものを食べるときに感じる豊かさも、実感としてすごくわかる。

加藤 けどね、おいしいもの食べたりいい家具買ったりしたとして、それでほんとにQOLは上がっていることになるのかよっていうのは、おじさんからのちょっとした批判としてあるわけですよ。

ぼくから見ると、これはまさに「丁寧な暮らし」同様、騙されちゃってるんじゃないの? って感覚なわけ。悪いことだとは思ってないんだけど、それだけでいいの? って気がするんだよ。

石崎 それはあれじゃないですか。やっぱり、その選択に他者からの評価軸や世間的な価値や評判を混ぜちゃうことの方を疑問視してるんじゃないでしょうか。

加藤 つまり、どういうこと?

石崎 「丁寧な暮らし」に対する感覚と同じで、マーケティングに乗ってようが、情報源が広告だろうが、本当に自分で満足する家具やご飯を買っていればそれはそれでいいなって僕は思うんです。人生の満足度だって上がってると思う。けど、これを持ってるとイケてますよと世間的に持て囃されてるから買ってしまうと、満足度の軸がぶれちゃうし、いつか突然「あれ、ほんとうにこれでいいんだっけ」ってなっちゃいそう。だから惑わされずに自分で選ぶことが大事なんじゃないかって。

加藤 うん、まあそれはそうなんだけど、ぼくが思っているのはその何かを選ぶっていうアティチュードの話じゃなくて、なんかその「暮らし」とか「衣食住」の前にっていうか、その上にある概念として、たとえば「自由」とか「愛」みたいな目に見えないもっと大きなものあるような気がするんだよね、ちょっと古典的な原理論かもしれないけど。

石崎 はい、はい。「暮らし」のなにをどう選ぶかはただの結果で、その大元になってる感覚こそが大事なんじゃないか、と。

加藤 そう、もっとあからさまに言っちゃうと、「うまいもんとか丁寧な暮らしとかに浸ってんじゃねえよ、もっと⼤事なものがあるはずだろ」みたいな。

石崎 なるほど。

加藤 でも同時に、なんか矛盾してるかもしれないけど、イッシーが言ってるように「おいしいもの⾷べることが⼈⽣で豊かさを感じる体験」みたいなことをちゃんとしないと愛も自由もないんじゃないのっていうリアリティもなんとなく頭では理解していて、惑わされずになにかを選んでいくというのはもちろんだけど、暮らしという現実と、愛とか⾃由みたいな⽬に⾒えない観念みたいなものを、レイヤーで考えないで、フラットに同時進⾏させないとダメなんだよなあと思ったりする自分もいるんだよね。

石崎 冒頭で加藤さんが「暮らし=生きること」と直観的に捉えたことと照らし合わせると、単に衣食住を備えて生活を続けることが生きることなのではなく、自由や愛や、目に見えないなにかを問うて、ときにそれを抱いて人生を送ることを生きることだと加藤さんは考えているんですね。

加藤 うん、べつに愛や自由じゃなくてもかまわない、でもなんていうかきっと人はそれぞれに「普遍的な価値」みたいなものを心の底に抱いているはずで、そういうものと、今日話してきた「暮らし」や、これまで話してきた「自分らしさ」や「自然」とかが有機的につながってるような気がするんだよね。ぼくの場合はそれが「自由」とか「愛」ってことなんかなと思う。あんまり考えずにスッとその言葉が出てきたからね、べつにヒッピーを気取ってるわけでもないんやけど。

暮らしへの関心とプライベートライフ

加藤 ぼくの思ってる「暮らし」については十分話したと思うから最後にイッシーが具体的に持ってる暮らしのイメージについて聞かせてよ。

石崎 そうですねえ、ものすごい端的に言ってしまうと、「暮らし=家」かなあ。家の中でのこと。自分がいる間はもちろんだけど、いない間の時間も含んでいる。家の中にどんなものを置くかも暮らしだし、誰とどう過ごすかも暮らし。逆に、自分が家の外で働いている時間は暮らしのイメージから漏れてます。そして、少し情緒的なニュアンスを持っている言葉だなって。

加藤 そのイメージについての重要度や価値はイッシーにとって高いわけでしょう?

石崎 うーん。高いというか、高くなってきた、でしょうか。そのへんが「暮らし」という言葉を使えるようになったきっかけと関係しているんだと思うんですけど。

加藤 うんうん。

石崎 この数年で、付き合っていた恋人と同じ家に住むようになって、その後に結婚をしたんです。それまでは自分の家でのことも、仕事も、交友も、ぜーんぶ均されて一緒くたになってたんですよね。それを「生活」と呼んでいた。

でも、人と同じ家に住むことで家の中のことに焦点があってきた。「家」や「家庭」が輪郭を持ってきた。だから「暮らし」が使えるようになったんじゃないかなと思ってるんですよ。初めに「『生活』は無味無臭な感じがいい」って話したと思うんですけど、いまの家を指して「無味無臭は冷たすぎる!」って。

加藤 なるほどね。その結果として「暮らし」を意識したことで人生、つまり生き方にも変化が生まれているんじゃないかな。

石崎 そうですね、そう言えると思います。

加藤 ぼくはね、結婚自体は実は大した事柄じゃないんじゃないかなと思いますよ。結婚が人生に変化をもたらしたんじゃなくて、人との「暮らし」を考えることが人生に影響を与えている。

石崎 ああ、たしかにそうかもしれない。ぼくにとって「暮らし」に目を向けるタイミングが結婚というわかりやすい事実と偶然結びついたってだけで。家のことなんてなんでもいいや、ただ寝れればオッケー的な状態から、より能動的な選択をするようになった。

加藤 結婚や同棲は単なるきっかけで、人間として成熟していく段階でプライベートライフに対する意識が高まっていった可能性があるよね。

石崎 ありますね。結婚や同棲をしなくてもそのタイミングは来ていたような気もする。公的な自分とは違う、プライベートで内面的な自分を、家っていうハードに落とし込みたいと思ったり。なんていうか……どこかに出かけて行くよりも、どこか安心してひっそりする時間や場所を欲しいと思い始めていた感じもある。

それに、身の回りのことについて自分で工夫するのが楽しくなってるんですよ。料理も、ここ数年でずいぶんするようになった。

加藤 うんうん。自分の子どもたちを見てても思うんだけど、「家のことをこうしたい」「プライベートライフをこうしたい」って、たとえば高校生には全然わからない感覚なんだよ。

石崎 そうか、たしかにそうですね!そんなこと思ったことないもんな。

加藤 おれもそうなんだよ。高校生どころか、なんなら30代ごろまで思わなかったけど。でも、いまはわりと思うわけですよ。「暮らし」と呼ぶか「Living」と呼ぶかは置いておいて、家のことは気にはなる。

石崎 はい。ぼくも、これまでまったく興味なかったのに、自分の好きに家を建てられたらどんなに楽しいだろうって思いますもん。そんな予定もお金もないですけど。人間の成熟の過程かあ。「終の住処」なんて言葉もあるけど、どこにどう住むかっていうのは人にとっての大きな関心ごとなのかな。

加藤 以前ね、ある雑誌のアンケートで、「気になる小さな家」っていうテーマに、こんな風に答えたことがあるんだけど。


Q. その家にはいつごろ、どこで出会いましたか
A. 「老後」という言葉にリアリティを感じたある日、夢の中で

Q. その小さな家の特徴は?どんなところが気になりますか、どんなところに惹かれますか?(300字以内)
A. 家そのものは暮らすことのほんの一部にすぎないから、建物そのものはぼくのライフスタイルを熟知している建築家に任せよう。海が見える大きな窓があること、火(暖炉)があること。とにかくシンプルに、でもストイックにならずに悦楽的に住める小さな家。でも、よく考えてみると、結局ぼくが憧れているのは、暮らすことで向き合わざるを得ない自分自身の姿とか、誰にも邪魔されない静かな時間といったことのようで、そうだとすれば、周りになにもない、孤立したロケーションというのが一番大事なんじゃないかなあという気がしてきた。それがLa JollaとかBig Surのあたりなら最高なんだけど

加藤 自分にとっての理想の暮らしってこれちゃうんって思うんですよ。理想を考えるとき、ディティールそのものを積み上げていくよりも、もうちょっと広く、自分について考えていった方が楽しくなるんじゃないかなあと思えた。その一つの答えが家の建つ場所、ロケーションとしてこのときは出てきた。

石崎 面白いなあ。理想の暮らしを具体物で考えていったのに「そこで過ごす自分」に焦点が当たっていったっていうのもいいなあと思う。ぼくが仮に家づくりのテーマを掲げるならなにかなあ。すごく考えてみたい。興味あります。

加藤 家と自分についてね。もっと話そうよ。ぜひ、コトバノイエで。

石崎 コトバノイエで、ですね。「自分の理想とする家」を考えて遊びに行きますね。

 

──対談を終えて

石崎

「好きなものに囲まれて暮らしたい」とまでは思わないけど、日々目に映すなら自分が心から気に入ってるものが多いほうが当然楽しかろう、とは思う。そして自分はいくつかのかたちですでにそれを知っている。

たとえば友人が書き下ろしてくれた絵。絵そのものは変化をしたりはしないがそのときの心の持ちようで細かな感触が違うから面白い。その絵には知らない家族の風景が描かれていて、ふと目に入った折に心を少し穏やかにしてくれる。

たとえば形が気に入って買った包丁。「重く、強い」印象のものばかりが目立つ包丁界の中で自分が選んだその包丁は、軽く、握りやすく、余計な装飾が一切ない。料理をする日は毎日使っているけれど、野菜を切るたび清々しいし、いまでも使うたび胸がときめく。

たとえば窓側の景色。リビングの窓が南向きなので買ってきた植物はだいたいそこに並べている。窓を開けると川と、高速と、青空が見えて、たまに吹く風がカーテンと植物たちを揺らす。その光景がすごく好きだ。

今回、加藤さんが「人間としての成熟とプライベートライフへの関心の高まりは関係している」と話していたのが個人的にもとても面白かった。自分が人間として成熟しているかどうかは別として、会話のなかでも触れたけれど、こんなに家のことに興味が出てくるとは思わなかったから。暮らしは自分の内面を投影するものであると同時に、それらの反映された具体によって、再び自分を刺激したり癒したりするものであるのだな。世界と自分は呼応する。暮らしはそれを一番近くで映し出す。

「ならば」と、自分にとっての理想の家を考えたとき、最初に浮かんだのは窓だった。横に広い、大きい窓。その向こうには視界のちょうど端端で収まるくらいの庭があって、いくつかの木や植物が植えられている。植物は成長して花を付け、木は季節によって表情を変える。庭と同じくらいの広めのリビングから、毎日その風景を見ることができる。それがあれば、あとはある程度なんでもいい気がする。そして、なぜ「あとはある程度なんでもいい」のか、僕が改めて暮らしや家を考えるなら、その問いから始めてみたい。

 

加藤

何年か前に、一脚の椅子を買った。

1960年代にデンマークで発表されたラウンジチェアで、皆既日食にインスピレーションを得てデザインされたということで「EJ5 CORONA CHAIR」という名前を持っている。

もちろん新しいものではなく、おそらく70年代に制作されたいわゆるビンテージと呼ばれる家具だけれど、別にそのときに椅子を探していたわけではなく、ふらっと立ち寄った知り合いのインテリアショップでたまたま出会ったものだった。

古⺠家を改装したショールームの片隅にひっそりと置かれていたその椅子になんとなく目が惹かれて、この椅子なんていうんでしたっけ、とFさんに尋ねたら「ああ、それコロナっていうんですよ」と即答で返ってきて、ぼくの中の何かが反応した。ちょうどコロナ禍の真っ最中で、外出自粛の規制が解かれたばかりのときだったのだ。

じゃあちょっと厄払いのまじないで、それもらいます。
そんなちょっとしたストーリーがあって、その椅子は今なにごともなかったようにコトバノイエのリビングにおさまっている。

これは衝動買いなんだろうか。
あるいは「北欧デザイン」というスイートな言葉に吸い寄せられた「お買い物」なんだろうか。

置く場所も考えず、ちょっとした旅行くらいは行けそうな値段の椅子を無計画に贖うこと、それはここでイッシーと話した「惑わされずになにかを選んでいく」こととは一見かけ離れた行為だし、そのことで「豊かな生活」や「丁寧な暮らし」に近づけるなんて少しも思わないけれど、人とモノのありかたに教訓なんてないんだと、原稿を読んであらためて思い直した。

ただ漠然と荒野のようにさまざまなモノがあって、そのなかのある種のモノは、うまく表現できないけれど、美しさや官能性といった目に見えない光のようなものを発していて、それを感じるアンテナさえあれば、人とモノとの交感とでも呼べるようなコミュニケーションが成立する。
なんならモノをヒトと置き換えてもかまわない。

そしてその「交感」の底に流れているのが、ぼくにとっては自由とか愛という言葉で表現される目に見えない何かなのだ。

「暮らし」という言葉は、日々接している雑誌やインターネットで目にした時に、なんとなくその使われ方に違和感は覚えてはいたけれど、それがなんなのかあまり深く考えることもなく、ちょっとしたノイズのようなものとしてとらえていたようだ。

それをこうやって俎上に上げたことで、少しはその澱を解きほぐすことができた。

どこまでいっても答えのないことを、賽の河原の石積みのようにぐるぐると考え、話す。それは昨今取り沙汰されている効率とか生産性とかから考えるととてつもなく無意味なことなのかもしれないけれど、これを読んでいると、だからこそ大切でかけがえのないことだと素直に思えるし、そんな時間をいとおしくさえ感じてしまう。

夏の日の夕暮れに誰かと散歩をするような、そんな感じ。
だからどうってことはないけれど、そういうのってなんか少し愉しいじゃないですか。

(続く)