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「自分らしさ」とはなんであるのか──コトバノイエ加藤博久×Backpackers’ Japan石崎嵩人対談

「自分らしく生きよう」と語りかけられれば、「それはたしかにその方がいい」と納得する。けれど改めて考えてみると、はて、自分らしさとは一体なんだったろうか。自分らしく生きる方がいいと思う自分はそれまで自分らしく生きていなかったのだろうか。自分とは。らしさとは。「自分らしくあること」を説く人たちが多くいても、「自分らしい」の意味を教えてくれる人は多くありません。

この記事では、30歳年の離れたふたりを迎え、それぞれの生きた時代と視点を通して「自分らしさ」について考えを深めてみます。

加藤 博久(かとう ひろひさ)
1955年滋賀県生まれ。BOOKS+コトバノイエ店主。
2005年、ある建築家との出会いをきっかけに家を建てる。家を建てたことがきっかけとなり、自宅を古書店としてオープンさせる。本をきっかけに訪れる人達と店主との間に、色んなことが起こり始める。イエを飛び出して、本を出張させることもある。

石崎 嵩人(いしざき たかひと)
1985年栃木県生まれ。Backpackers’ Japan取締役CBO。
2010年、友人3人とともにBackpackers’ Japanを創業。会社や事業のブランディングやクリエイティブディレクションを担当。個人の活動として文筆や出版も行う。

 

「らしさ」の意味とうつろう言葉

石崎 いまって、「自分らしくいる」ことが提言される時代であると思うんです。たとえば企業や商品のコピーでもいろんな言い方で「自分らしくいること」「私らしくあること」の価値を謳ってる。多くの本を読み、普段から言葉について触れる機会の多い加藤さんから見て、いまの世相も踏まえ、この言葉はどんな意味を持ってるように思いますか?

加藤 まず、イッシーはどう思う?

石崎 うーん。会社のことを考えたり文章にしたりするなかで頭に思い浮かぶことはあるんです。けど、実際に使うかどうかについてはけっこう迷ってて。

加藤 それはどうして?

石崎 「自分らしい」ってぼくのなかではよくわからない言葉でもあって。たとえば、社内のメンバーの働き方を表現しようとするときに、「自分らしさ」を使った方が聞こえもいいしわかりやすい。つい使いたくなる気持ちになるんですが、実際に彼ら個々人の気持ちになってみると、「自分らしく働いてます!」とは別に思ってないだろうなあって。

加藤 そんな気がする。外から見て、みんな気持ちよく働いてるなとは思うけどね。それに、「らしい」って、自己評価のための言葉じゃなくて、外から誰かが見て評するための言葉じゃないのかな。あなたらしいね、とかさ。

石崎 たしかにそうですね。ということは、「自分らしくいる」のような使われ方は、加藤さんは違和感がありますか?

加藤 俺はね、ぜんぜんピンと来ない。

石崎 加藤さんは1955年生まれなのでぼくとはちょうど30歳年が離れてるわけですが、加藤さんが生きてきた時代には「自分らしい」が取り上げられることってなかったのでしょうか。

加藤 やっぱり最近だよね、ぼくらのころはまた違う言い方をしてたのかもしれないけど。

石崎 ああ、そうですか。

加藤 ぼくは自分に「らしい」も「らしくない」もあるかよって思うんだよね。だってさ、自分でいることしかできないわけで、そこに『らしい』をくっつけるってなんかおかしいじゃないですか。

石崎 らしくあろうとする、しないに関わらず自分は自分でいることしかできない、と。

加藤 そう。赤瀬川原平の『自分の謎』って本があるんやけど、そこに、なめこの話が出てくる。

(自分の謎 | 赤瀬川原平)

 

加藤 なめこって、表面にぬるぬるしたとこがあるやん。あれも、なめこだと思う?

石崎 ええっと、ぼくの感覚で言うと……なめこでしょうね

加藤 そうでしょ。あの、きのこの形したところは動かないけど、ぬめりの部分はものすごく曖昧な状態としてあるわけじゃないですか、表層とも言える。自分ってそういうもんじゃないかなって。

石崎 表層の曖昧な部分も含めて自分である、と。

加藤 「らしさ」って言われるところって、たぶんそのきのこのところを指してると思うんだよ。

石崎 ああ、わかってきました。なら、曖昧な部分があるからこそ、真ん中のより芯の自分を確かめたくなるのかも。

加藤 でもね、自分っていうのもさ、常に変わってたりしない?

石崎 そうですね。表層の部分は人に合わせても変わるし、自分の中心にある考え方も、ゆっくりかもしれないけどそのときどきで変わっていってる。

加藤 そうそう。本を読んだり人に出会ったりして、表層の部分は常に変わるけど、そのことでじつは自分のコアも変わっていってるような気がするんだよね。つまり何が言いたいかっていうと、「らしさ」なんかどうでもいいやんって。ぼくは、常に変わっていく、そのことにこそ面白みがあると思いますけどね。

石崎 加藤さんの言うこともわかるんですが、この言葉が使われる理由って、その変わってしまう自分にネガティブな印象を抱いてるからだと思うんですよ。目の前の人に合わせて自分を取り繕ってしまう、とか。

加藤 そうかもしれないね。これはまた別の観点やけど、この話が出るのって、ある意味で豊かな話だと思うんですよ。

石崎 豊かな話ですか。

加藤 たとえば、明日食べるものも困ってる人が、いままさに戦争を経験している人が、『自分らしさ』なんて考えないじゃないですか。

石崎 そうですね。飢餓や戦争に限らず、戦後復興や高度経済成長でとにかく身を粉にして働こう!町を、家族を豊かにしよう!という行動原理の時代にも生まれづらそう。

加藤 そうでしょう。ある程度文化の成熟した豊かな時代の産物であって、社会的な状況に応じて生まれている。ということは、裏を返せば、あまり根源的な問いではないということなんですよ。

石崎 はい、はい。

加藤 だから、「自分らしい」「自分らしさ」が使われる背景もわかるし、一方でそれについて釈然としない気持ちになる人のこともわかる。けどね、うつろう言葉なんちゃうかな、これは。

石崎 うつろう言葉かあ。そう考えると「本当の自分」とか、もうちょっと前だと「自分探し」とか。あれも同じバトンを持っていた言葉な気がしますね。

加藤 言葉としてはもう、みんな「自分探し」なんて使わないもんね。もう一つ見方を足すと、その一方で「自分」は根源的な問いである、ということなんですよ。「俺っていったい何者やねん」と「自分はなんのために生まれてきたんやろう」とか、これは根本的な哲学の問いなんだよね。これは何千年も前から変わるものじゃない。

石崎 なるほど、たしかに。

加藤 「らしい」とか「探し」とかはそこに尾っぽとしてくっついてる時代的なワードで、考えてることって要は「自分」なんだよね。だから「らしい」についてはべつに引っかかる必要はない、大した意味はないんじゃないかって思う。

抑圧の強さに反して、人は「自分」を求めていく

石崎 では、「らしさ」の意味は置いておくとして、現代において、なぜ人はこの言葉に魅了されてしまうんでしょう。「自分らしさっていいよね」とか「自分らしくいよう」とか。

加藤 それは、社会的な抑圧が強いからだと思うなあ。特に、今の日本ってすごく息苦しいとぼくは感じていて、例えば今はマスクしてなかったら怒られたりするじゃない。つまり社会的な要請、抑圧が強いときには、逆に世の中に惑わされない自分を求めたくなるんじゃないかって。

石崎 マスクの話に限らず、やっぱり同調圧力が強いってことなのかな。世の中や周囲に合わせる自分がいるからこそ、そうではない自分に立ち帰りたくなる。加藤さんも抑圧を感じますか?

加藤 ぼく自身は、ノーストレスだよ、今は。

石崎 (笑)

加藤 ぼくは、とにかく面倒臭いことや自分が嫌なことをやらないようにしようとしていて。それはなぜかというと、残された時間の話なんですよ。

石崎 人生の残り時間という意味ですよね。

加藤 そう。残された時間の中で、たとえばすごくお金を稼げることでも、それが面倒くさいことだったり嫌なことだったらやりたくない。自分の、自由な時間の方が大事やから。そして、嫌なことをするストレスや他者からの抑圧にさらされないように努力している。

石崎 「努力してる」んですね。たとえば年齢を経て自然とそのノーストレスな状態を得たのではなくて。

加藤 そう、常に意識している。そうしないと、ストレスも抑圧もどんどんやってくるんだよ。でも、若い人って大人と比べたらある意味弱い立場にあるじゃないですか。お金もないし、顎で使われたりするし。できることが少ない。その抑圧感の高さから、「自分らしさ」みたいな言葉を追ってしまうのかなと思うんやけどね。

石崎 少し話が逸れるんですけど、数年前に「好きを仕事にする」「自分らしく働く」みたいなテーマでトークイベントに呼ばれることがあって。ぼくは「好きを仕事にすることってほんとにいいのか」とか「自分らしさって必要なんだっけ」とか、テーマから疑ってみることが大事だと思いながら参加したんですけど。

加藤 人から見ると、イッシーなんかいわゆる「自分らしく生きてる人」に映っちゃうんだよね、たぶん。「自分らしく生きる」をテーマにしたような本もよく売れるしね。

石崎 多くの人がそういう生き方を求めてるってことですよね。加藤さんの話に重ねるなら、若者は特にそうなのかもしれない。

加藤 なんとかして自分を肯定したい、肯定できる術を見出したいって人が多くいるってことなんじゃないかな。

石崎 「自分らしい」って自分を肯定するワードなのか。自分らしさの反対にあるものって「借り物の自分」みたいなことかなと思っていたけど、それだけではなくて、否定されたり、肯定しづらい状況にある自分で。

加藤 「自分探し」もそうだよね。自分のなかの肯定できるなにかを見つけたいって欲求が根底にある。でもね、そんなもんないんですよ。

石崎 言い切りますね(笑)

加藤 正確に言うと、あるもないもないやんっていう感じだけど。自分って、ただ生きてるだけでちゃんとここにある。それ以外にはなにもない。探すものでもないし、じゃあこうやって話してる自分は自分らしいの?らしくないの?って言ったら......。

石崎 らしいとも言えるしらしくないとも言える......。

加藤 そう。らしいとからしくないって話で片付ける話じゃないんだよね。あるとすると、自分が話したいから話してるっていう、もっとシンプルな行動原理なんだよ。

決められた正解に囚われないために

加藤 イッシーは自分を肯定したいという気持ちはある?

石崎 加藤さんのお話を聞いてて、ぼくはその気持ち自体あんまりなさそうだなあって。でもそれは、すでに肯定できているからではなくって、別に肯定するべきものと思っていない。

加藤 面白いね。

石崎 ぼくには「人間誰もすごくない、あなたもわたしもね」という考えがベースにあって、弱くても、不格好でも、ただ淡々といまある環境を生きるしかないと思っています。なにものかになりたいという気持ちがあまりない。だから逆に、満たされてなくもない。自己実現欲求との差がないんです。

加藤 自分ってものはいまある環境の中にしかないよね。さっきマスクの話を持ち出したけど、マスクしたくない自分もいれば、マスクをする自分もいる。「本心ではしたくないけど人に迷惑かけたくない」とか「文句言われるのも面倒だ」とか、そうやって、違う考えを持つ矛盾した自分をひと抱えにするしかない。そこには正解なんてなくて、「肯定」っていうのとも微妙にニュアンスが違うんちゃうかな。

石崎 そう考えてみると、「自分らしさ」を追い求めることって、当然あってしかるべき曖昧さや決着のつかなさを排除することになってしまうのかもしれませんね。

加藤 決着なんてなかなかつかないものなんだよ。二元論でなにがいい、悪いって話はシンプルだし、一見胸がすくんだけど、これが正解と片付けられる話なんて少ない。

石崎 以前ぼくがTwitterで同じように「自分らしい」の話をしたとき、ある方から「人が自分らしさに囚われてしまうのは自分を形作られた観測可能な対象として捉えてる節があるから。ほんとうはもっとバラバラで刹那的ななにかだと思うけどね」と反応があって。ぼくはそれがすごく腑に落ちてるんです。自分ってこうと決まったものではなくて、もっとバラバラで刹那的ななにか。

加藤 物理や算数だったら正解はあるんだけどね。生きていくことって、正解のない哲学を歩んでいくことだから、正解なんてないってことを意識しておかないと、自分が苦しくなるんじゃないかな。

石崎 自分という不確定なものに正解を見出してしまうと、その正解にたどり着けない自分が生まれて、かえって欲求不満になってしまう。

加藤 それは不幸なことだとぼくは思う。

石崎 二元論や安易な「正解」にとらわれないためにぼくたちができることって、加藤さんはなんだと思いますか?

加藤 ひとつは自分の頭で考えることだと思います。たとえば「自分らしい」のような言葉が目の前に現れたときに、ちょっと立ち止まってそれを引き受けるかどうかを考えてみる。自分の頭で考えないと、二元論に流されちゃうし、世の中で流通する言葉に乗っかってしまう。

石崎 自分の頭で考える、考えないってなにが影響してるんでしょうね。

加藤 日本の教育は顕著だよね、自分の頭で考えた答えを許さないじゃないですか。たとえば、道徳の授業にだってだいたいの正解が決まってるでしょう。

石崎 国語もそうですよね。よく言われる話だけど「このときの主人公の気持ちを述べなさい」に正解がある。

加藤 実社会に置き換えても、例えばアメリカでレンタカーを借りるじゃない。車を選ぶときに「こっちじゃなくてこっちに変えたいねんけど」と伝えると、そいつはその場で返事をくれるんだよ。日本だったらどう?

石崎 上司に相談してきます……?

加藤 そうだよね。アメリカの彼は、自分の仕事における許容範囲とか、仕事場における自分のポジションを自分の頭で把握していて、ここまでだったら自分でケツ拭けるよねってことを認識してる日本はなるべく責任取りたくない社会だけど、ちゃんと自分で考えて「ここまでは俺がケツ拭けるな」ってイメージできる方がいいよね。この責任取りたくないとか、逆にいうと任せられないっていうのも、ぼくから言わせてみれば抑圧やなあって。

石崎 そこにその人の考えはないですもんね。自由とは真逆。

加藤 それはぼくからしたら息苦しい社会だなあと思う。その度合いが強くなると自分の頭で考えることは難しくなってしまう。ほんとうは、社会とはずれてしまうかもしれないけど、「ここからここまでは自分の責任でやる」と規定できさえすればいい状況は多くあるのに。

石崎 自分の頭で考える訓練として、無意識のうちに守ってるルールや思い込みからわざとちょっとずれてみる、というのもいいかもしれませんよね。仕事だったら、なんとなく「自分が決めちゃいけない」って思ってることを自分の裁量で決めてみたり。既定の枠を多少飛び出したところで大きな影響はないし、むしろこっちの方がよくない? と思ってする判断って気持ちいいじゃないですか。

加藤 そうだよね、そして大事なのは、それで失敗したときに、納得できるってことなんですよ。

石崎 はい。自分の頭で決めたことだから、失敗に頷ける。自分らしさが欲しい、自分らしくありたいと思ったときには、自分らしくある方法を探るよりも、「こうしなければいけない」と思い込んでる枠を飛び越えて、自分の裁量でできる行動を増やす方が早道かもしれない。

加藤 そう、そう思うよ。アクションするだけなんだよ。「自分がこれがいい」と思ったことをする。判断の軸を自分に置く。

石崎 周りの人や環境に対してつい批判的になってしまったり、不健全な依存を断ち切ることにも繋がるかも。

加藤 誰にも任せず、自分が楽しいか楽しくないか、面白いか面白くないか、その判断を自分でしていくことでもっともっと自由になれると思うんだけどね。

石崎 「自分らしさ」自体に形はないかもしれないけど、自分がこうしたいと思ったことを実践することでちょっとずつ自分をいい状態に置くことができる、ということですね。なるほどなあ。僕も勉強になりました。加藤さん、今日はありがとうございます。とても面白かったです。

加藤 いえいえ、次はイッシーにうちに来てもらってそこで話そうよ。『ことさら』について、とかさ。

 

──対談を終えて

加藤

この「らしさ」の話は、どうしても「自己承認欲求」に行き着かざるを得ないように思う。

それにしても、どうしてこれほど「自分大好き」になりたい人が多いんだろうか。

その「自分らしくなくてはいけない」という、ぼくからするとほとんど社会的ともいえる欲求は、たとえば「人は成長しなければいけない」と同様の、為政的なプロパガンダではないのかとさえ思えてしまう。

「らしくなくてもいいじゃん」と、ふと言ってしまったときに、どんなことが起こるのか。

自分の関心に他人を参加させようとすることを、いっかいやめてみたらどうだろう。

孤独になることを畏れずに、自分の中のほんとうに真摯なものを見つけだして、それを自分が愛する人にどう伝えるか、そのことだけをまっすぐ考え続ければいいんじゃないのかな。

自分自身の、自由のために。

 

石崎

「自分でつくる」に勝る学びはないとぼくは常々思っていて、今回の加藤さんとの対話で辿り着いた先が同じ帰結であったことを純粋に嬉しく思います。今後もシリーズでこの対談やりたいなあ……。

「自分らしい」ひとつを取ってもそうだけど、言葉はとても便利で、同時に不完全なものだと思う。不完全だからこそ、言葉を駆使しても「言いたいことを言い切れない」と感じたりするし、「確かにそうだけれどなにか違う」と気づかせてくれたりする。それがとても面白い。例えるなら、言葉はだだっぴろい思考の海を航行するための船、もしくはオールのようなものだと思っています。自分に合った船、自分に合ったオールを持たないと、未知の思考へと向かうための航海ができない。

自分とはいったいなんなのかは難しい問いだけれど、自分がどんな人間なのかは、自分がしっくりくる言葉を選び、使い続けた先で少しずつ知っていける気がする。

 

(終)