「ゲストハウスtoco.」(東京・入谷)を1号店に、「Nui. HOSTEL & BAR LOUNGE 」(東京・蔵前)、「Len京都河原町」(京都)、「CITAN」(東京・馬喰横山)と、現在は4軒の宿泊施設を営むBackpackers' Japan(以下、BJ)。
創業から10年を経て、2021年にロースタリー、2022年秋には長野県南佐久郡にキャンプ場「ist」をオープンし、今後も、ブルワリーや公共の場づくり、宿泊施設のエリア拡大など、新たなフェーズに歩みを進めている。そんなBJは、2022年4月、これからの景色を共につくっていくメンバーとして、CCO(Chief Communication Officer)に塩満直弘さんを迎えた。
ぴしっとのびた背筋と爽やかな笑顔が印象的な塩満さんは、2013年、生まれ育った山口県萩市に、「萩ゲストハウスruco」をオープン。ひとり客や長期滞在者などこれまで萩に訪れることがなかった、新たな人の流れを生んだ。2020年には、山口県下関市・阿川駅に、カフェを併設させた駅舎「Agawa」をオープン。無人だった駅には、幅広い世代が訪れ、土地の可能性を引き出した。場をひらき、人を動かしてきた彼が、いまBJに参画した理由。そして、BJでどんなことをしていこうとしているのか、話を聞いた。
しおみつ・なおひろ/1984年、山口県萩市生まれ。山口県内の大学在学中に、カナダに1年半、ニューヨークに1年滞在する。帰国後、スポーツメーカーと旅館で勤務した後、2013年、萩ゲストハウス「ruco」をオープン。2019年、自身が代表を務める株式会社haseを創業。2020年8月、JR西日本との共同プロジェクトとして、山口県下関市山陰本線沿いの阿川駅をリユースし、小さなまちのkiosk「agawa」をオープン。2022年4月1日より株式会社haseの代表を兼務しながら、株式会社 Backpackers’ Japan の取締役CCOに就任。2022年8月山口県下関市角島の近くに四季の茶屋「uttau」をオープン。
(企画:なかごみ | 取材・執筆・編集:森 若奈(三三社)| 撮影:竹之内康平 / こぺ)
まちのハブとなるような宿を目指して
塩満直弘さんが営む「萩ゲストハウスruco」は、山口県萩市のバスセンターから徒歩1分ほどの場所にある。幕末から明治にかけて、政治、文化、経済などの各分野で活躍した多くの偉人が暮らした萩市は、当時の面影を残す城下町や史跡が残り、観光地としても知られる。そんなまちで生まれ育ち、高校卒業まで過ごした塩満さんがrucoをオープンしたのは、2013年、29歳のとき。
ゲストハウス「ruco」1階のレセプション(写真上)とカフェスペース(写真下)。(撮影:加瀬健太郎)
「萩により有機的なコミュニケーションが生まれる場所ができれば、関わる人が増えて、外から来た人たちが自ずとまちに撒き散らしてくれるものがあるんじゃないかって思ったんです。決まった人にしか会わない環境じゃなく、他県や他国の人たちとも関わることのできる素地ができたら、萩がまちとしてもっと面白くなっていくって」
rucoを通じて、生まれ育ったまちに多様な選択肢をつくりたいと考えていた塩満さん。それは、中学、高校と無気力だった自分の殻を破るように日本を飛び出し、カナダとアメリカで過ごした2年間が影響しているという。
「世界中の多種多様な人たちと関わるなかで、自分の本質を問われるような体験をして、自分への理解が深まった。どんな状況であっても、自分は自分だし、人対人なんだと思った。そこで過ごした時間とか、世界が内側にも外側にも広がっていくような経験が、rucoやいまの自分にもつながっているなと思います」
そんな塩満さんの意識が宿に向かっていったのは、帰国して数年が経った頃。休日に、おもしろそうだと思う場所に足を運ぶうちに、「萩にもう少し宿の選択肢があってもいいかもしれない」と思うようになったという。それから、鎌倉にある旅館で1年間、宿の運営方法を学んだ。
「経営と運営についてとても勉強になったけど、基本的にフロント業務でしかお客さんと顔を合わせられないことにどこか物足りなさも感じていて。それでふと、海外のホステルや B & B に泊まったときの、何ともいえない感覚を思い出した。ホステルの1階にあるバーで、一杯飲みながらその土地の人と話したり、ビールっ腹のおっさんと肩を並べたり。そういうコミュニケーションのなかで、“安心”したなって。その場所に居ることができる安心感というか。その記憶が土地のイメージをつくっとるなと思ったときに、『これや!』って」
コミュニケーションが生まれる、まちのハブとなるような宿。その瞬間、地域の人と外から来た人が入り混じる、多様でオープンなまちの光景が思い浮かんだのだという。そして、すぐにインターネットで、「ゲストハウス 東京」と検索。それで一番上に出てきたのが、BJが最初に手掛けたゲストハウス、「toco.」だった。
この奥に、築100年の木造の母屋や日本庭園があることが想像できない、カフェのような小さなtoco.の入り口。この扉を開けると、宿泊者のリビングでもあり、宿泊客以外も立ち寄れるカフェ・バースペースとなっている。
「次の休みには向かっとった。扉を開けた瞬間のあの感じ。それぞれが人生を謳歌している空気が漂っていて、それがすごく心地よかった。その瞬間に、『これだ。俺はこれを絶対萩でやる』って決めた。そうなってから自分の気持ちが強くなったし、救われたなと思う。自分は間違ってなかったと思ったし、できるんや、できるよなと思った」
鎌倉に住んでいた塩満さんは、その日から休みの度に、横須賀線や京浜東北線を乗り継いで上野駅で下車し、toco.に通った。そこで、BJの創業メンバーや、のちにrucoの内装をお願いする東野唯史さんをはじめ、多くの人と出会ったという。それから約1年が経ち、萩へ帰る準備が整った、toco.に立ち寄る最後の日。仲間たちからは、「どうせまたすぐ来るでしょう」と笑われながら、塩満さんは涙してtoco.をあとにした。
築100年の古民家をリノベーションし、2010年にオープンしたBJの1号店、toco.。宿泊棟となる母屋は、木造の建物ならではの温かな風合いが残り、縁側からは、桜や紅葉など、季節ごとに庭の植物を楽しむことができる。
見逃せなかった違和感。
もっと多様な価値観が入り交じるまちに
萩へ戻ってからは、物件探しに難航するが、そんななかで見つかったのは、元楽器屋さんの4階建てのビル。バスセンターからも、飲食店からも、城下町にも近く、まちのハブをつくりたかった塩満さんにとって、まさにベストな物件だった。そして、2013年10月25日、ついに萩ゲストハウスrucoがオープンした。
rucoができると、バックパックで日本中を旅する人、女性の1人客や長期滞在者など、これまでは萩を訪れることがなかったような、歴史に興味のない人たちも来るようになった。
「rucoをめがけてくるお客さんのなかには、せっかく萩に来たから地域の人と話したいという人が多くいて。そうやって地元の人との関わりを持ったことをきっかけに移住してきてくれた人や、地元へ帰ってくるUターン者も増えてきましたね」
rucoのまわりには、美容院、パン屋、飲食店などの個人店がオープン。まちには、何かを新しくはじめる土壌が形成されつつあったが、塩満さんは、心の奥にあったひっかかりを無視することができなかったという。
「正直、これでいいのか?という思いがあった。rucoから派生していくもの、共感してくれる人が増えたことはすごく嬉しいことだったし、中の人も、外の人と関わる喜びを感じてくれていたと思う。でも、やっぱり地元の人にまだまだ届いていないという感覚が少なからずあった」
今まで通り、歴史のまち、明治維新のまちのような打ち出し方だけでは限界がある。だからといって、それらを否定したり、土地や行政のせいにしていると、かつての自分がそうだったように、ここで生まれ育っていく子どもたちに未来を見せることができない。ではどうやったら、今までやってきたことを否定せずに、土地の可能性や選択肢を見せられるか。塩満さんは、宿泊施設という限られた用途からの発信に、限界を感じはじめていたのかもしれない。
「僕はもともと、萩や山口県をもっと多様で、もっといろんな価値観が入り交じるまちにしたかった。だから、無意識的に生まれている、人と人の間にある見えない壁のようなものを無視できなかったし、それを今でも取っ払っていきたいと思ってる。
そのためには、自分たちが住むまちや暮らしに対して、もっと能動的になれるきっかけが必要やし、僕自身が、あと僕ら世代が、もっと大局的な部分でまちと関わっていかないといけないと思うようになっていました」
「どうせ駄目」じゃない。
自分たち次第で変えられることがある
そんなある日、塩満さんは友人の祖父母の家に行くため、山口県下関市にあるJR山陰本線・特牛(こっとい)駅に立ち寄った。車を停めて駅に近づいた瞬間、目の前に現れた映画のワンシーンのような光景に、心を奪われたという。
「ちょうど向こうから汽車が入ってくる瞬間で。普段からあるのに、こうやって佇んだから、この景色を見れた。それに、旅情を感じたし、その場所の可能性を感じたんです。駅はたとえ利用していなくても、誰でも存在が分かる、町のアイコン的なものやから、そこを活用することの地域への波及は大きいんじゃないかと」
(写真提供:株式会社hase)
特牛駅を面白いと思った一週間後、たまたまJR西日本の人たちと出会う機会に恵まれた。
「あるワークショップに呼ばれて行ったら、そこに事業者としてJR西日本の地域共生室の人たちが来ていて。そこで、特牛駅の話をしたら、面白がってくれる人がいたんです」
背中を押されるかのようなその出会いによって、話は進み出す。駅や土地に可能性を感じた塩満さんの思いを起点に、構想から約2年半の歳月を経て、2020年8月、特牛駅の隣の阿川駅の駅舎がリニューアルされ、カフェを併設した小さなキオスク「Agawa」が誕生した。無人駅だった阿川駅には、近隣に暮らす子どもからお年寄りまで、幅広い世代の人が訪れるようになった。
「この場所にあらたな可能性を見出すことで、、土地に住んでいる人たちの意識にも何か投げかけられたらとも思っていました。もう何もできない不毛地帯だと思っている人に、主体的に関わることによって何かしら変化させられるところを見せたかった。『どうせ駄目』じゃない、自分たち次第で変えられるって」
境界線をつくらないために、壁は中身が丸見えのガラスで設計された「agawa」。レンタサイクルサービスもある。(写真提供:株式会社hase)
諦めるしかないと思われていた土地で、「何かが生まれる」可能性を示すことになったAgawa。事業を通して、JR社内でも、自分たちの駅でもできないかという声が上がっているという。そしてもうひとつ、塩満さんも予想していなかった展開が起こった。
「Agawaをきっかけに地元に帰って来たという若者が現れたんです。すごくうれしかった。そうやって、何かに挑戦できる素地があると、誰かひとりでも思ってくれるような、たすきを渡せるようなことを今後もやりたいと思った」
自身も悩み、その都度人に助けられてきた塩満さんは、ひとりの心が動き、ひらいていく瞬間をこれからも見ていきたいと話す。
「思いがあっても、どうせ無理だとか、自分でその可能性に蓋をしてしまうことってあると思うけど、俺はそういう人を少しでも後押ししたいなと思っています。
それぞれのあばら骨の隙間から見える光みたいな、そういうものが自由に表現できる、表出できる場所が、誰にでもあることを知ってほしい。そのためにも、おこがましいかもしれないけど、少しでも何かを感じてもらえるように、場所やプロジェクトを通じて投げかけていきたいと思っています」
BJがつくる空間、集う・働く人たちが
まちや土地にもたらすもの
まだひらいていない「そこにある」ものをひらき、新たな風景をつくってきた塩満さん。rucoやAgawaの立ち上げを経て、ゲストハウスをはじめるきっかけとなったBJと、再び繋がりを持つことになった。
2022年4月から塩満さんをCCOとして招いたBJは現在、第2フェーズのなかにいる。ちょうど創業10周年を迎えた2020年、世界的なパンデミックの影響を大きく受けた。しかし、そこで立ち返ったのは、宿の在り方が変化しても、人が、「旅をしたい」「自然なかたちで人と出会いたい」という思いは変わらないということ。これまでは、東京や京都と中心に近い場所で宿泊施設を運営してきたBJだったが、今度は、業態も、地域の幅も広げていこうとしている。
「BJのMVP(ミッション、ビジョン、フィロソフィー)を見たときは心が震えたし、その人がその人らしく生きられる未来に俺も関わりたいと思った。BJとは、それぞれ規模は違ったかもしれないけど、お互いのやってきたことの延長線上で合流した感じがあります」
塩満さんが任されたCCOとは、Chief Communication Officer(チーフコミュニケーションオフィサー)。日本ではまだあまり馴染みのない役職だが、簡単にいうと、お客さんや取引先など対外的なコミュニケーションの責任を追う役員。一般的にはSNSなどのデジタルも含めたコミュニケーション全般を取り仕切る人を指すことが多いが、塩満さんが担うのは、外に対しての発信や対面で人と人の関係性をつくっていく部分だ。
「ゲストハウスを萩という地方で10年間やってきた経験や、Agawaで企業や行政、地域の人たちと関わりながらつくっていった経験が、BJが描く未来に活かせると思っています。人と人が関わりあいのなかでつくっていくことが好きやから。それに、BJがつくる空間、そこで働く人たちが、まちや土地にもたらすものが、俺はあると思ってる。自分がそうだったように、それをまた誰かに渡していけたらいいなと思っています」