STORY

第10話 | 2009年2月17日

19時を過ぎたあたりからみなめいめいに片付けをはじめ、僕と、斜向いのデスクに座る先輩を除いて部署の人はあらかた帰ってしまっていた。

僕が働く会社では夏以降、19時半以降の残業は特別な申請無しにはできない決まりになっていた。初めは戸惑いや不満が聞こえていたが、さすがに半年も経てばリズムができてくるようで、毎日19時を過ぎるとデスクに残る人はまばらだった。

「お疲れさん。石崎も早く帰れよ」

その言葉にはっとして、日報を見るために開いていたパソコンから顔を上げる。斜向いの先輩はいつの間にか書類を整理し終え、上着を着て机を離れるところだった。

「あっ、はい。僕ももう…」

僕は慌ててパソコンの電源を切り帰り支度をした。最後の一人だったので電気を消すために一度部屋の端まで行かねばならない。仕事が残っていたわけではなかった。 先輩が仕事を終えて帰るのを、僕はそれとなく待っていたのだ。

「お前一年目なんだからもうちょっと力抜いて仕事していいんだよ。お前が残って俺たちだけ帰るわけにもなあ、いかないしさ」

と、そう笑って言い残し先輩はエレベーターの方に向かって歩いていってしまった。駅は同じ方向なので急げば間に合う。僕は追いかけながら、先輩が気を使って言ってくれた一言に少しだけ心を痛めていた。

「一年目なんだから」とその先輩は言ってくれたが、僕はこの会社で二年目を過ごさないつもりだ。今週末には辞令が下り、僕以外の新入社員はみな見習いから正社員に昇格する。そこではじめて先輩を含めた支店内の全員が、僕の退職について知る予定だった。

僕が会社を辞めることを支店内で知っているのは今のところ、直属の上司と支店長、それから僕のOJTを担当してくれた三年目の女性の先輩の三人だけだった。

 

 

三週間前。会社を辞める意思を初めて伝えたのは僕の右隣のデスクに座る上司、営業部門の係長だった。もうすぐ定年の係長は会社に40年近く籍を置いていることになる。僕が配属されてから今まで温かい目で新人の仕事を見守ってくれていた。

「お話ししたいことがあります」と係長に告げると会社の三階にある休憩室まで僕を連れ出しコーヒーを奢ってくれた。この休憩室で、僕は自分のお金でコーヒーを飲んだことは一度もない。

カップのコーヒーを一口だけ飲んでから、係長に向かって自分の考えを告げた。

友人から起業の誘いがあったこと、思い描くものはあるが事業計画と資金はないこと、その二つを手に入れるために会社を辞めて友人とともに資金稼ぎから始めようと思っていること。僕はそれらを「迷い」ではなく「すでに決めたこと」として伝えた。

係長は今の社会情勢や、会社を立ち上げる問題と難しさ、お金の問題などなど、知っていることをすべて僕に話してくれた。そして「俺は反対だ」と厳しい表情ではっきりと言った。

それでも僕の話を一蹴するようなことはしなかった 。いくつか質問を投げ、たっぷり一時間、真剣に話を聞いてくれた。もう一日だけ考えてみろと係長は最後に加えた。

 

次の日になり「係長、やっぱり、どうしても」と切り出す。迷っていたわけではなかったので一日経っても僕の考えは変わらなかった。

係長は参ったなあという顔で僕の方を向いた。昨日と違い、その表情に子どもの悪戯を認めるような柔らかい諦めを感じる。

「なんだあ本当か?本当にやるのかよお。いや、実はさ、昨日カミさんとも話したんだよ。やっぱり俺は8:2で止めたい気持ちだよ」

「あの、その2割っていうのは?」

「そうだなあ。でもまあちょっとだけ、君らの将来を見てみたい気もするっていう、あれだな、興味だな」

係長はそういって少し笑った。僕もつられて笑った。人生で初めての上司。僕はこの人がとても好きだった。

 

三年目の女性の先輩は係長とは反対側、つまり僕の左隣のデスクに座っている。同じく配属からずっと仕事の面で相談し続けている先輩で、気配りができる上に仕事をバシバシこなす、さっぱりとした格好良い人だった。

先輩に話したのは係長よりもほんの少し前で、内容も多少ぼんやりとしていたと思う。

「好きなようにやったらいいんじゃない?選んだ後でどう成功させるかは、それは私の知ったこっちゃないし」

先輩はそう言ってのけた。

「ただ、その本間君だっけ?『失敗したらそのときはみんなで立て直そう』なんて、そんなこという人は私は嫌いだな。他人を誘って代表とる責任があるなら、見栄でもいいから俺がなんとかするっていうべきなんじゃないの?石崎もそう言ってみたら?」

などと「知ったこっちゃない」はずの範囲に口を挟んで忠告をしてくれる。僕はこの人のこともやはり好きだった。

 

僕が会社を辞める意思を係長に伝えた次の日、話は支店長に通り、そのまま支店長が部長と人事に話を通しにいった。支店長は「まだ他のみんなには言わないでくれ」と言った。

僕は支店長の意図を汲み、辞めるような素振りは極力外に出さず今までと同じように振る舞うことにした。

人事から帰ってきた支店長が僕を手招きし、応接のテーブルに向かい合って腰掛けた。支店長が困った顔で「参ったよ」と言う。

なにか辞める手続きに問題でもあったのかと思い「なにかありましたか」と訊ねると、どうやら僕が辞めることに関して、人事から遠回しに問責されたのだという。

 

「友人と起業?なんですか、その理由。支店長は黙って聞いてたんですか?甘ちゃんですよ、甘ちゃん」

「一喝してぶっ飛ばして『騙されたと思ってもう少し働け』とでも言ったらどうですか」

「親が黙ってやらせるようじゃ、きっとまあそれなりに裕福な家庭なんだろうなあ」

支店長が人事から聞いて来たばかりの言葉を並べる。

甘いという発言を、僕は受け止めるつもりで頷きながら聞いた。発言だけでなく、厳しい口調になるのももっともだと思う。採用にはそれだけ費用がかかっているし、実際会社には迷惑が掛かかることになるから。

しかし僕の家庭の話が勝手に持ち出されたことに関してはどうしても許せず、それを聞いた瞬間に頭の中が嫌悪感でいっぱいになる。

支店長の前だからと眉をひそめないようにして、ほとんど無表情になるしかなくなった。

実家は田畑に囲まれるような片田舎で、両親ふたりは共働き。両親共に元気で爺ちゃん婆ちゃんも暮らす健全な家庭ではあると思うが、お世辞にも裕福だなんて言えるような家ではない。

人事の人がどういう意味で裕福と言ったのかは知らないが、なにかしらの悪意が込められた一言なのだろう。

なにより本人の僕からはなに一つ聞かず、人の家庭環境を勝手に想像する方法で批難するというやり方が僕には信じられなかった。真剣に僕の話を聞いてくれた父さんと母さんが不当に他人に皮肉られるのが嫌でたまならかった。

 

「支店長、ご迷惑掛けます。人事の方がそう思われるのもごもっともですし、僕が直接話に行きます」

憤った感情をなるべく出さないようにして僕は支店長に伝えた。支店長は「いやもう話はついたから余計なことはしないでくれ」と机に腕をつき右手で額を支え、目を伏せたままで僕を制した。

支店長の真意はわからなかったが、そんなやるせなさを抱えながら、僕からの辞意表明はそれですべて終った。

こうして支店長を含めたその三人のみが、支店内で三月末の僕の退職を知る状況となった。

 

 

会社を出て駅へと向かう道に目を向ける。50mほど先を先輩が歩くのが見えた。

昇進間近と言われる11年目の営業の先輩。「上司抜きの、営業担当だけで集まろう」といって飲みに連れて行ってもらったこともたくさんあった。

支店長からはまだ黙っていてくれと言われていたが、先輩にはどうしても自分の口から打ち明けたかった。

走って先輩を追いかける。足音に気づいた先輩が振り返ったところで僕は立ち止まり声をかけた。

「ちょっと、話したいことがあるんですけど、いいですか?」

若干の緊張と走って来た息切れで言葉が詰まる。先輩はほんの少しだけ驚いていたが

「そうだなぁ…じゃあとりあえず、入るか?」

と道路の向こうに見える居酒屋を指してにこやかに微笑んだ。

 

引き戸を開けて店に入る。

入り口に一番近いテーブル席に座り、おしぼりを受け取るのと同時に 「生二杯」と右手に二本指をつくり伝えた。何度か会社帰りに飲みにくる中で、いつの間にかこういった仕草をするようになっていた。ビールはすぐにやってくる。僕たちはジョッキをつき合わせて乾杯をした。

一口目をいつもよりたっぷりと飲んだ後で先輩はニヤッと笑い、

「なにを話すつもりか、当ててやろうか?」

と言った。

僕は当てられても外されてもなんとなく気まずいような気がして

「あ、いえ、そういうのは……」

とかぶりを振った。

先輩はふうんという顔をしてから続けた。

「大体こういう話ってのは結婚か、もしくは転職なんだよ」

先輩は変わらず口元に笑みを湛えたままの表情だった。そんな素振りをまったく出していなかったはずの僕は、まさか本当に当てられるとは思わなかったので思わず息を飲んだ。

「はい。……というか僕の場合は、転職というのともまた違って」

と、僕はそんな風に語り始めた。先輩は僕が話し終えるのを待って「うんうん」と小さく二回頷いた。

僕は先輩からの言葉を待っていた。

「いいじゃん」

「……えっ、はい?」

先輩から返って来たのがあまりに簡単な一言だったので返事もうまくできなかった。

「いいじゃん。良いと思うよ。やってみなよ」

あっさりと励まされて拍子抜けしてしまった。

普段から、先輩は自分の時間を割いて僕に仕事を教えてくれていたので、僕はそんな先輩の期待を裏切るような気がして、今回のことをすごく申し訳なく思っていたのだ。

そんな僕の心中を知ってか知らずか、先輩は僕の顔を面白そうに眺めながら話を続けた。

「俺もさ、実はもうちょっと若いときに友人に転職を誘われてね。んでそっちの方が年収も多いし、安定してるし、休みも多くて、そのとき俺には家庭も子どもいたから明らかに待遇はよかったわけよ。でも、俺はそれでも単純に仕事としてこっちをやりたかったから今ここにいるんだよね。上の人がなんて言ったか分かんないけど、そう考えれば俺がここにいる理由と一緒だもん。損得じゃなくて選ぶものがあったわけで……じゃあ当然反対なんかしないわな」

僕は大きく息を吸い込みゆっくり吐いた。話に集中していたためかいつもはすぐに空けてしまうジョッキのビールがまだ半分ほど残っている。

会社を出るときからピンと張られていた緊張の糸は、先輩の話を聞くうちにいつの間にか切れていた。

もし同じ立場に立ったとき、僕は後輩にそんな風に言えるだろうか。「敵わないなあ」と、色んな感情がこみ上げて来て胸がいっぱいになる。

 

結局それからしばらく、僕と先輩はお互いのことを話しながら何杯かビールを飲んだ。 先輩と二人で酒を飲むのは これが初めてだったが、同時に最後の機会になるだろう。先輩も同じことを感じていただろうか。

「いやあ、でももったいないのはさ。営業が面白くなってくるのはこれからなのにな。お前ならそこそこいいとこまでやれてたと思うよ。いやほんと」

「そこそこ、なんですね」

僕がそう反応すると、先輩はただ笑って返事をした。騒がしい居酒屋にいてもはっきり聞き取れるような、気持ちのいい乾いた笑い声だった。

 

「今日は楽しかったよ」 と言って先輩は帰っていった。

僕はなんだかたまらない気持ちで、家のある駅についてからも、なんとなく遠回りして家に帰った。東京はまた冷え込んできたけれど、耳たぶの裏から冷たくなるような寒さは、どちらかというと学生時代を過ごした福島の寒さに似ていた。

他のメンバーはどうしているだろう。

本間君は学校の方がそろそろ落ち着くはずだ。琢也君は春までに少しでもお金を稼ぐためアルバイトに明け暮れていると聞いた。ミヤも同じように辞めるにあたって色んな人から話を貰っているのだろうか。

あと一ヶ月半で、会社を辞めて働きながらの旅に出る。春に静岡でお茶工場。夏には北海道でシャケ漁。信じられないような気もするし、実感がないままに飛び出てしまう、案外そういうものなのかなという気もする。

春からは、出会う人の層もきっと変わる。事業計画次第では東京に戻らない可能性だってあるかもしれない。だからこそ、いまここに居るうちに、周りにいるひととの会話を大事にしたい。

ほんとうに、心からそう思っていた。

 

 

※この記事は当時書かれていたブログや日記を元に、また新たに書かれています。