STORY

第16話 | 2009年9月11日

9月。本間君が僕たち三人を誘ったその日から一年が経つ節目の月。毎年の決まり文句のように残暑は厳しく、僕たちたい焼き屋にとって、売上げが伸び悩む夏はもう少し続きそうだった。

四人で一緒に住み始めて四ヶ月、白いたい焼きの八王子店がオープンしてから三ヶ月のこの折、琢也君が引っ越すこととなった。神奈川に出す新店舗の為である。

 

「四人で飲むこともしばらく出来ないから」と取って付けたようなことを本間君が言い、八王子に越してきてからほぼ毎日一緒にご飯を食べたテーブルを囲んで、僕たちはちょっとした酒盛りをした。

毎日へとへとで帰ってくる僕たちは、誰か来客があるときを除いては家でお酒を飲んだりはしなかったし、節約のため外へ飲みに出掛けることもほとんどなかった。しばらく出来ないもなにも四人で飲むなんて一体いつぶりだろう、とそんなことを考えながら僕は飲み終わったばかりの缶ビールを手元で軽く潰した。

飲みはじまってはみたものの、改めて観察してみると、本間君と琢也君とミヤの三人では不思議と会話が続かない様子だった。仕事の話題ならいくらでもできても、この人たちの間には友人同士で話すような共通の話題がないのだ。四ヶ月も一緒に住んでるのに……と僕にはそれが少し可笑しく、しばらく黙って見ていた。

 

この三ヶ月のことをゆっくりと思い出す。

飲食店経験のない僕たちが実際の店舗を、しかも世の中で流行し大繁盛する店を運営するのは、想像通りというか、たいへん労力を要するものだった。 その上での店舗展開であるわけだから、ここしばらく生活が安定している実感はまったくない。見えないなにかに突き動かされているような感覚だ。

 

 

「専務から電話がありました。とにかく急いで展開しろ、と」

琢也君が毎晩恒例のミーティングでそう言ったのが六月の半ばで、ここから僕たちの店舗展開が動き出した。

八王子店をオープンさせる前から「ひとまず今年中に四店舗オープン、つまり一人一店舗やな、そのペースで店を探すように」と専務から言われており、とにかく利益を多く残したい僕たちもその提案自体には賛成だった。しかし、まさか一店舗目の八王子店開店から一ヶ月も経たないうちに展開の話が持ち出されるとは思っておらず、僕たちはやや仰天した。日々の売上だってまだ安定しないし、オペレーションでの課題も多く残されている。このタイミングで店舗展開なんて可能なのだろうか、と思ったわけだ。

しかし後にして思えば、このとき専務が外から発破をかけてくれて本当によかった。とにかく流行りものの商売である。流行の手応えを感じているならばすぐさま先手を打ち、先行者利益でしっかり稼いでおかねばならないのだ。

実際にその後、夏が来るまでの間に白いたい焼きの噂は東京だけでなく全国的に広まり、テレビなどのメディアで幾度も取り上げられるようになった。自分たちが落ち着いてから店舗展開をしようと思ったら、かなり後手になっていたに違いない。展開のペースで言っても、目標である「今年中に四店舗」はかなり難しいだろう。そんな背景から、僕たちの仕事の中に、新店舗探しが加わった。

 

店舗展開のために動き出したこの頃、それまでは朝5時半に起きていたのを6時ごろまで遅らせるようになっていた。売上は引き続き順調ではあったものの、さすがにオープン直後ほどではなかったし、なにより僕たちが少しずつ慣れて来ていたのだ。

本間君は毎日自分の眠気について不満を漏らしながら起きてくる。琢也君は分厚い眼鏡をかけ、誰とも話さずゆっくりと暖機運転をする。ミヤは二人よりも早く起きてきぱきと昼の弁当を準備している。僕はそのちぐはぐな朝の光景を特になにも言わず見ている。この集団生活に溶け込むために工夫は要らない。変に調和を取ろうとせず、気を揉まず、ただ傍観している方がいい。

例えば、琢也君は朝食で食べるパンの耳を必ず残し、本間君はそれに関し声を荒げて注意する。そのうち食パンは「耳」のないイングリッシュマフィンに変わった。実に上手いこと回っている。

朝の時間は少しだけ本性が出る。さすがにこれは、という不穏さを感じたときは僕が適当な軽口を叩く。みんななんとなく笑ってくれる。それでだいたいうまくまとまっていた。

 

その後本間君と琢也君と僕の三人は7時前に家を出発し、自転車に乗って店へと向かう。8時にはアルバイトさんがやってくるので、それまでの時間で焼き台の準備をせねばならない。

ただでさえ暑い焼き台の前だが、夏が近くに従って室温も徐々に上昇している。温度計は準備を初めてすぐに30℃を越し、昼になる頃には40℃も越えてしまうのだが忙しくてそれどころではない。営業中はとにかく戦争なのだ。

16時、17時になって品切れの商品が出始めても、朝から続く行列は途絶えることなく、少ないときでも3〜4人は常に並んでいる。19時の営業終了までなるべく種類を多く残せるよう焼き続けて、そこからようやく完売の案内が出せる、という具合だった。19時の営業時間を過ぎても、20時ごろまで人が来続ける。片付けして家に帰ってご飯を食べる頃には、だいたい21時を越えてしまっていた。

さらにその後、その日の営業の振り返りと世界一周企画についてのミーティングが続く。翌日はまた6時に起きねばならないわけだから、睡眠の質をいかに向上させるかという課題にも、僕らは熱心に取り組まねばならなかった。

 

そんななかで行われる新店舗探しは、毎日1人〜2人が10時頃から18時頃まで店から抜けて、商圏の違うエリアに車で出かけ不動産屋を回るというもの。毎日動きっぱなしの生活だったため、この新店舗探しは計らずとも、それぞれにとってよい息抜きになっていた。

不慣れな飲食業・接客業で、朝から晩まで右にも左にも常に誰かいる環境。もちろん休みはなし。言葉にするとそれだけだが、実際にはなかなか辛い部分がある。八王子店が開店してからの一ヶ月間は特に、僕たちは苛立ちを表だって顔に出したり、人にやたらと感情をぶつけたりしていた。

一つ一つの事象は思い出してみればそんなに大したことじゃない。ミヤが琢也君を揶揄するようなことをぽろっと言ってしまったり、それを本間君が強く叱責したり。店長の琢也君に伺いを立てるために商品の発注を保留していたミヤに対して「なんでいいと思ってたのにやらんかったん?真面目にやってください」と琢也君が必要以上に煽るような口調で言ったり。本間君と琢也君はいたるところで、なんどもぶつかっていた。

もちろん僕だって例外ではない。

それぞれ半休を取れるようになって来たころ「休みを貰うのが申し訳ない」と言った本間君に対し、僕が「それ、この前僕が同じこと言ったら『そんなこと思う必要ねえよ』って言ってたじゃん」と返したことがあった。それに対して本間君は「いや、それは俺が思うか思わないかだから」とわけのわからない自己中心的な返答をされて「なに言ってんだこの人」と思ったりしていた。

いつの間にか本間君や琢也君にいつの間にか「お前」と呼ばれることも密かに許せなく思っており、心の安定を保つため仕事以外の場面では避けたりもしていた。

 

要するにみんな気が立っていたのだ。疲れているから、不必要に他人の言葉や態度に傷つけられまいとして、つい自分の発言や態度が攻撃性を帯びる。23歳にもなって、僕らのそのちょっとした小競り合いはまるで小中学生のようであった。

もともとが仲良し同士でもまったくの他人同士でもない僕たちは、ことあるごとに本音と建前の間に立たされ、どれぐらい自分を出せばいいのか、また相手はどの程度踏み込んで話されるのを良しとしているのか、そのあたりの機微が全然まったくわからなかった。

そんな時期だったからこそ、店舗展開は息抜きとしてだけでなく、共通の目標を掲げるという意味でも、僕たちを関係を結果的に整えることとなった。

 

実際に展開の話が動いたのは七月の末からである。

専務が東京にやって来たタイミングで、八王子店のときと同様、僕たちが目星をつけていた物件を幾つか見てもらい、「うん、ここはいいな」と専務の御眼鏡にかなった物件二店舗分を押さえてもらうことにした。

一ヶ月間の工事期間を経て、八王子から車で20分程離れた国道16号線沿いに東京昭島店を開店。こちらには本間君が店長として行くことになった。「二店舗目は俺にやらせてほしい、やってみたい」という本間君自身の決定だった。

 

残りのもう一店舗、小田急線愛甲石田駅から車で少し行ったところにある物件は、昭島店から期間を三週間ほどずらし、厚木店として開店させることに決めた。 厚木店までは八王子から通うのが難しい立地である上、人も駆り出しづらいだろうという理由で、店長業と飲食店経験が一番長い琢也君が店長を務めることとなった。

これに伴い、八王子店の店長業はミヤに引き継がれ、僕は今後各店を回ってサポートをしながら四店舗目の物件探していくことになった。 僕に関しては六月末に総合旅行業務取扱管理者資格(旅行会社を開くには誰かがこの資格を持っていないといけない)を取ることを本間君から任されたので、その試験も十月に迫っていたが並行してやるしかない。

 

僕たちのたい焼き屋生活最初の三ヶ月はこんなふうに過ぎ、琢也君はそういった理由で、家を出て厚木店の近くに引っ越すことになったのだった。

 

 

引っ越しの決定はだいぶ前にされていたものの、実際に明日から琢也君がいなくなると思うと多少は寂しいものである。毎日、起床時間の五分前に琢也君の部屋からけたたましく鳴る目覚ましの音も、ようやく気にならなくなってきたところであった。

四人で飲み始まってしばらくしたところで、本間君と琢也君がベランダに出て行った。二人で煙草を吸っているようだけれどなかなか帰って来ない。話し込んでいるのだろう。

そういえば、と僕は思い出した。少し前にも僕は同じような光景を目にしていた。あれは琢也君の誕生日だから7月の上旬。ということは、四人で飲むのはその日以来なのだろう。

 

その日は確かビールをすでに各々何本か空け、宴会も仕舞いという時間に二人が煙草を吸いに行ったのだと思う。ベランダへは僕か琢也君の部屋のどちらかから行けるようになっており、二人は僕の部屋側のベランダに立っていた。僕は自分の部屋に戻って二人の会話を聞いていた。

「まだまだだな」

本間君が煙を吐き出してから、一拍置いて言った。

琢也君もそれに続くように同じ動作をしてから答える。

「まだまだまだまだ、ですよ」

僕はそんな二人をにやにやと見ていた。いい日だなあ、と思う。外から聞こえる電車の音や、昼の暑さを忘れさせるような夜風とか、この夜の感じを全部そのまま切り取りたいと思った。

今度は琢也君が話はじめる。

「死んでから『ちょっとやり過ぎたな』って後悔するぐらいがちょうどいいわ」

本間君が答える。

「なんかそれ、オーストラリアでも言ってなあ。なんだっけ、『幸せだ』って」

この日二人は酔っており、会話自体ちょっと支離滅裂なところがあった。あるいは、オーストラリアで共に生活した二人にしかわからない文脈なのかもしれないけれど。

琢也君が「うん」と噛み締めるように静かに首肯して「幸せやなあ」と最後にまたそう言った。それ以上二人は話さなかった。

 

今日は会話が聞こえる位置にはいないので二人が何を話しているかは知らない。業務関係の確認かもしれないし、また琢也君が幸せだなどと豪語しているかもしれない。

琢也君は酔っぱらうと結構こういうことを言ってしまう。そんな癖があると知ったのは、こうして一緒に生活してきたからだった。

厚木店が出来れば店はついに三店舗ということになる。小競り合いを続けて、足踏みばかりしているように思える僕たちだけれど、こうして思い返してみると、関係も、仕事も、過ごした時間のぶんちゃんと前進しているのだと思える。 その実感がまた糧となる。そう思えるのは、やはりいい日なのだった。

 

ベランダで二人が煙草を片付け始めるのがわかる。二人の戻り際に鉢合わないように、僕は二本しか飲まなかった自分の分の缶ビールだけ捨てて、部屋に戻って先に寝ることにした。

「しばらく飲めなくなるから」とか、そんな会自体僕たちにはあまり相応しくないのだ。盛り上がらないのも当然だ。どうせ会の終わりの言葉なんかもないだろう。「あれ、なんだ寝ちゃったのか」とか素っ気なく終えるぐらいがちょうどいい。

 

※この記事は当時書かれていたブログや日記を元に、また新たに書かれています。