COLUMN

違う我々でつくっていく。文化とはいったいなんであるのか──コトバノイエ加藤博久×Backpackers’ Japan石崎嵩人 それはほんとうはなんであるのか vol.4

加藤博久 1955年生まれ。石崎嵩人 1985年生まれ。ちょうど30歳ぶん年の離れたふたりが、世の中でごくふつうに使われている「ある言葉」を取り上げ、その意味についていま一度考えを深める対話「それはほんとうはなんであるのか」。

4回目となる今回は「文化」をテーマに、Backpackers' Japanの運営店舗CITANからお送りします。

加藤 博久(かとう ひろひさ)
1955年滋賀県生まれ。BOOKS+コトバノイエ店主。
2005年、ある建築家との出会いをきっかけに家を建てる。家を建てたことがきっかけとなり、自宅を古書店としてオープンさせる。本をきっかけに訪れる人達と店主との間に、色んなことが起こり始める。イエを飛び出して、本を出張させることもある。

石崎 嵩人(いしざき たかひと)
1985年栃木県生まれ。Backpackers’ Japan取締役CBO。
2010年、友人3人とともにBackpackers’ Japanを創業。会社や事業のブランディングやクリエイティブディレクションを担当。個人の活動として文筆や出版も行う。

石崎 今回は「文化」。またでっかいテーマですね(笑)

加藤 めちゃめちゃでかい。

石崎 加藤さんは今回なぜ「文化」を取り上げようと思ったんですか?

加藤 「文化」って捉えどころあるんかなあって考えれば考えるほど気になってきて。自分で使うときも、茫洋としすぎていてあまりきちんと意味をキャッチできてないような気がして。

石崎 たしかに、「『文化』ってどういう意味?」と聞かれると困りますよね。何気なく使われる言葉ではあるけど、ちゃんと説明できる人ってそんなにいないんじゃないかな。

加藤 そうそう。だからこそここでやるべきかなって。イッシーはこの言葉について思うところある?

石崎 会社の活動を続けてくるなかで、「Backpackers’ Japanは文化をつくってるよね」って言われたことがあるんですよ。Nui.ができたときなんかも何人かに言われた覚えがあります。新しい価値をつくってる、って意味合いだったと思うんですけど。

加藤 うん。

石崎 ぼくはその表現があんまりしっくりこなくて。自分たちに文化をつくってるような気持ちはないなって思ってたんですよね。

加藤 人がつい口に出していう場面で「文化」が軽く使われすぎるっていう気は、ときどきしてますよ。いまイッシーがいう違和感を、ぼくも感じることはある。

石崎 どうなんだろう。ぼくはどちらかというと、自分たちの活動を指して「『文化』という言葉は重すぎる」って感じてた気がします。文化をつくってるなんて畏れ多いというか、大仰すぎるというか。それに、「文化ってつくるものなの?」って気持ちもありました。

加藤 なるほどね。そういうとらえ方もあるねんな。

石崎 逆に、「カルチャー」という単語が軽々しくあてがわれすぎていると感じたこともあります。「BJ(Backpackers’ Japanの略称)にはカルチャーがありますね!」「カルチャーを大事にしてますよね」って言われると、それはそうなのかもしれないけど、あんまり濫用されると「『カルチャー』だあ?」って気持ちになる。もっと具体的に考えたい場面でも、「カルチャーがいい」に収束させてしまうと、もうそれ以上思考を深めることができないし。

加藤 つまり、使われ方に違和感があるわけだね。「自然」のときと似てるかもしれない。日常的に使われてるけど、だれもがあんまりちゃんと考えてない、みたいな感じ。

石崎 そうですね、自分自身、都合よく使ってしまってる場面もあると思う。だから今回は、「文化」や「カルチャー」の指し示すものを改めて考えられたらいいなと思っています。

 

「人が耕したもの」のもっと先へ

加藤 一度整理するためにも、最初は「文化」の辞書的な定義から話そうか。ぼくが調べたところでは“自然を純化して、人類の理想を実現せんとする、人生の過程”とある。

石崎 もう難しい!(笑) けど、この時点で面白くないですか?「自然を純化して」ですか。

加藤 「純化」って言われてもって感じなんだけど、“その成果の産物は、学問、芸術、道徳、法律ないし宗教、経済、すべて是なり”と続くんだよね。

石崎 ははあ。

加藤 これに加えて“西洋かぶれなること、新しがること”といった項目もある。どうもやっぱり、人間が、自然……というか、自然な状態を耕してできるのが文化だよっていうのが辞書的な定義みたいやねんな。

石崎 自然状態の真逆の概念なんだ、というのは改めて考えると興味深いです。それに、「culture(文化)の語源がcultivate(耕す)である」という話はよく聞きますよね。自然、あるいは自然状態に対して、人の意思や精神性が関わって形成されるのが文化である、と。

言わんとしてることはわかるけど、「culture(文化)はもともとcultivate(耕す)に由来していて、農業のagricultureとも語源を同じくしているんだよ」「へえ!そうなんだ」でつい満足した気になって、そこからさらに思考を深めようと思わないっていうか。

加藤 そう、それ。そこをもうちょっと行きたい。

石崎 ぼくも今回事前に意味を調べてみました。加藤さんの言っていたのほぼ同義だと思うんですが“人間の精神の働きによってつくり出され、人間生活を高めていく上の新しい価値を生み出していくもの”というのは見つけていたんです。でも、そのほかに“文化とは、複数名により構成される社会の中で共有される考え方や価値基準の体系のことである”というのもあって、元の意味からの発展系だと思うんですが、むしろこっちの意味で使う場面もかなり多くないですか?

加藤 それ、cultivateよりわかりやすいかもしれないね。まあ、語義的な意味をずっと話していても仕方がないから、ぼくらにとっての文化の話をしていこうよ。

石崎 そうですね。ふだん自分たちは「文化」にどんな意味を込めているのか、ということですね。

精神のフィットと組織の文化

加藤 今回ぼくはCITANに泊まってるけど、来るたびにBackpackers' Japanのスタッフに触れてて、みんなええ感じやから、来るたびに気持ちいい。これって社風だと思うし、そういうものを文化と呼んでもええんちゃうかなと思うねんな。世代なんて超えて、ぼくとここの人たちは、なにかしらフィットしてると感じる、その感じ。

石崎 加藤さんはよくうちのスタッフを指して「みんな気持ちええなあ」と言ってくれますよね。加藤さんからしたらぼくよりももっと年の若い、しかも初めて会う人たちにもその「フィット感」を感じてくれている、と。

加藤 逆のこともふだんの生活でけっこうあるんだわ。理解はできるけど、自分にはしっくりこないこと。「言ってることわかるけどなんとなくフィットしない」みたいな、まあ違和感みたいなもの。

石崎 年齢や職業など、単なる所属の違いでそうなってるわけではなくて、それらを紐解くのが文化なんじゃないか、ということですよね。さっきの定義に照らし合わせると精神活動を用いた価値体系ってことだ。

加藤 そう。だからそういう意味で言ったらイッシーたちは文化をつくってきたって言っていいんじゃないかなと思うけどね。どう?

石崎 うーん。加藤さんがそう言ってくれるのは嬉しくはあるんですけど、まだそこまでピンと来ないのは、自称するもんじゃないって気持ちが強いからなのかなあ。

加藤 だってさ、いま宿のレセプションをやっているAさんは、Backpackers’ Japanが大事にしているものと自分が大事にするものをどちらも抱えながら、人と通じ合っていこう、という気持ちがあるわけでしょう。

石崎 そうですね。スタッフ同士でもそうだし、お客さんともそうしようとしていると思う。やり方は、ひとそれぞれだと思うけど。

加藤 それはやっぱり文化活動だよ。

石崎 そうかあ。自分たちの精神や価値体系を外に滲ませていってるってことかな。採用なんかで言うと「カルチャーフィット」っていう言葉がありますけど、あれもまさに組織の文化の話ですよね。

加藤 そうやってコミュニティの文化は生まれていくんだと思う。それに、たとえばそういうものにフィットできない人は外れていくってこともありうる。

石崎 そうですね。裏表ですね。

加藤 「divercity」「多様性」って単語があると思うけど、あれは、ぼくは人種や世代の話ではなくて、極めてカルチュラルな、文化の話なんじゃないかって思う。精神活動の違いだから、違いについて「なんとなくフィットしない」になるんだよ。

石崎 たしかにそう言われてみると考えてもみなかったような。「多様性」って差異について理解し合うことを前提にした話だと思うけど、表層の違いではなく、精神性が関わった文化の差異ってことですね。これ、めちゃくちゃ大事なんじゃないかな。

 

持ち合うために「ちゃんと見る」

石崎 多様性の話に関連してですけど、会社をやっていると、むしろ多様さ……というか、個々の違いこそが組織の文化を形成しているんじゃないかと思うことがあります。

加藤 どういうことだろう?

石崎 AさんとBさんの考え方が違うとして、またはもっとたくさん考え方の違った人たちがいたとして、その人たちが一緒に活動するためには、「自分たちに共通するものってなんなんだろう」を考えるじゃないですか。

重なり合ってるものかもしれないし、ぜんぶを包み込むものかもしれない。話して、それぞれの違いを認識して、そのうえで共感する部分を持ち合って活動を続けていく。もちろん人によっては持ち合えない場合もあって、それがフィットしないってことなのかもしれないけど、そうやってつくられていくのが文化なのかなって。

加藤 そうだね。お互いの中に共通性を見出すってことと、それ以外の差異についてを認めていくってことはセットだと思う。違いに目がいってしまうのはある種自然なことだけど、そのなかで共通項を探しながら理解をしていこうとすることって、それ自体が尊いものだとぼくは思うけどね。

石崎 もともとある差異を共通させる必要はないですよね。差異を差異のままにしたまま、その上で自分たちはなにを共通させ育んでいくかの方が大事ってことだ。

加藤 そうじゃないと、他のアジア諸国やキリスト教的世界観との違いをぼくらは乗り越えていけないじゃないですか。表層的な違いを取り沙汰したらキリがない。だから違いから始めて、乗り越えていく。それが「多様性」や「diversity」のあるべき姿だなって思うよ。ではなにで乗り越えていくのかの、その基盤となるものがぼくは文化だなって思う。

石崎 違う我々で同じ文化を育てていく、ということですね。組織の文化形成と同じことが言えそうですね。

加藤 でもね、やっぱり「文化」の一言では内包するものが多すぎてわかりづらいんだよ。ぼくら二人も、ある程度の共通認識をつくるのに、最初から話してここまでかかる。

石崎 そうですよね。逆に、それをわざわざ文化となんか呼ばずに、違う他者との間に流れているものを認識し、同じ部分を探り、乗り越えていく方法ってあると思いますか?

加藤 さっき、違いを理解するところから始めるしかないって言ったけど、そのもっと前に、「わたしはあなたのことをちゃんと見ないとわからないよ」って思い合うことだと思う。

石崎 ああ、なるほど……。大前提のように聞こえるけど、たしかにわかったふりしてスキップしちゃってたりするかもしれない。途中で諦めずに、自分で勝手に解釈せずに、向き合う。

加藤 そこからしかスタートできないじゃない。お互いをよく見て、違いの中味を知って、その上で共通のものを見つけていく。そうすることでわたしとあなたは、個別の一人の人間として、ちゃんと認識し合うことができるんですよ、ってことになる。

石崎 うん、うん。いや、めちゃくちゃ難しいことですよね、これ。

加藤 それをしないと、違いは異物になっちゃうんだよね。仮に、頭では「多様性は大事」って思ってたとしても、「自分と違うもの」としてみなしてるだけだったら融合はできないんだよ。いまの世の中で理解されてる多様性って、頭でわかってるだけの状態のような気がするんだよね。ほんとうの意味合いと一致させるには「わかるためにちゃんと見ること」。

石崎 ふつうは共通点をなるべく最大化するために、違いを矯正したり、排除したり、無視したりしちゃうもんな。さも同じ人間であるかのように自分を偽るケースもあると思う。まずは「ちゃんと見ないと、ちゃんと知り合わないとわからないよ」と思い合う。その先で、違いを違いのままにして、共通する部分の方を集団の中で大事にしていける。これはもう、ほんとうにそうだなあ。ちゃんと覚えておかないと忘れちゃいそうだ。

 

カウンターカルチャーがつくろうとしたもの

石崎 ちょっと視点を変えて、「カルチャー」という単語の使われ方についてなんですけど、本来は大衆文化・マスカルチャーも当然内包している言葉だと思うんですが、もっと狭義的に、大衆やマジョリティと逆側にあるものを指して使われたりしませんか?今の時代に新しく生まれてきたものとか、若者が持ってるものを指して「カルチャー」という場合が。

加藤 ぼくら世代にとってのそれってカウンターカルチャーなんだよね。きっと、そのイメージが残ってるんちゃうかなあ。

石崎 加藤さん世代のカウンターカルチャーって、具体的にはどういうものを指してたんでしょう?

加藤 ひとことで言っちゃうとヒッピーだよ、ヒッピーカルチャー。60年代の後半に、アメリカの若者たちが世の中に反抗して、いわゆる「世間」から外れて、自分たちと価値観を共有する人たちだけで暮らすコミューンをつくって、自分たちでオーガニックな農業やりながら自給自足の生活をするとか。あとは例えば、学生運動とか反戦デモなんかもそう。ウッドストック*もその象徴かもね。

*1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間、ニューヨークで開かれた、ロックを中心とした大規模な野外コンサートイベント。約40万人の観客を動員。1960年代のカウンターカルチャーを象徴する歴史的なイベントとして語り継がれている。

とにかくぼくからしたら、オーガニックとかエコロジーとかロックとかサステナビリティとか無党派とか、今の時代の底に流れてるこういう価値観って、なんかこのヒッピーカルチャーの思想っていうか、ムーブメントの上澄みのような気がするねんなあ。

石崎 へえ、面白い。

加藤 でもね、続かなかったんです。言うたら、体制に負けて滅びちゃったんです。持続できなかったんですよ。

石崎 そのときの「体制」ってなんなんですか?

加藤  当時は「エスタブリッシュメント(establishment)」っていう言葉だったけど、要は自分たちの自由を奪う大人たちの価値観かな。アメリカでいうとAmerican Dreamをなんか盲目的に追いかける生き方でもあるし、それに、ベトナム戦争の真っ最中だったから自分たちに徴兵令状を突きつけるホワイトハウスだってそうだと思う。当時の映画で言うと、「卒業(原題:The Graduate)」って観たことある?

石崎 見たことはないですけど、Simon & Garfunkleのサウンドトラックのジャケットは有名ですよね。

(Simon & Garfunkel | THE GRADUATE)

加藤 あれはね、大学を卒業してぼんやりと過ごしていたエリートで金持ちの主人公の青年ベンジャミンがあるパーティーに誘われるところから話が始まるんだけど、その中で、「就職するならプラスチックの会社だよ、プラスチックこれからバンバン来るからね!」という誘いを受けるシーンがある。それが当時のメインカルチャー。石油を使った化学製品を造る大きい会社に入って、お金を稼いでいい暮らしをする。ところが主人公はあんまりピンと来ない。

石崎 親世代との感覚の違いみたいな?主人公も、裕福な家庭なわけですよね。経済格差による対立ではないんだ。

加藤 そうそう、それも大事だね。だからやっぱり、精神的な、文化の対立の話だったんだよ。「卒業」もそうだけど、中間層や上流層の若者たちが、親世代のやってることに対して、NOを唱えている。「自然破壊や人種差別をしながらお金を儲けて、当たり前にいい暮らしをしてるけど、それ、おかしいんじゃない?」っていう感覚から生まれた物語が当時のいわゆるニュー・アメリカン・シネマには多いねん。「イージー・ライダー(原題:Easy Rider)」もそうだよね。反体制の二人が自由を求めてハーレーに乗ってアメリカ横断の旅に出るロードムービーなんだけど、最後はふつうの農夫に撃たれてしまうし。

石崎 ああ、カウンターカルチャーが負けたことのメタファーになっているんですね。

加藤 結局ね、資本主義社会を生きる中で、カウンターカルチャー側に経済性が紐づかなかったことが大きいんですよ。それにね、当時は「ドロップアウトする」という感覚が強いんだよね。大きな体制から脱け出す、落ちこぼれる、というニュアンス。

石崎 わかってきました。カウンターカルチャーの側も、闘ってはいるけど、もともとメインカルチャーが圧倒的であることはわかっていたんだ。

加藤 そう。自分たちの価値観は信じていたけど、その価値観で社会、資本主義的な大きなうねりを根底から変えられるとは、じつは考えていなかったんじゃないかと思う。だからこそドロップアウトして自分たちのコミューンをつくって、そこに自分たちの文化で形成された新しい世界をつくろうとしたわけ。そういうムーブメントだった。

石崎 日本における70年代は「しらけ世代」って言葉がありますよね。あの時代の無力感って学生運動の沈静化が関わってるのかなと思ってたけど、アメリカでのカウンターカルチャーの収束も影響してるってことなのかな。

加藤 トム・ウルフっていう評論家の本で「そしてみんな軽くなった(In Our Time)」っていう70年代のアメリカを描いた本があるけど、日本だけじゃなくアメリカもそうだったみたいだよ。

そしてみんな軽くなった トム・ウルフの1970年代革命講座 | 大和書房

石崎 象徴的なタイトルですね。

加藤 真剣に闘っていたからこそ無力感も大きかったはずだと思う。ベトナム戦争も負けて終わっちゃったからね。

 

現代の「カルチャー」をめぐって

加藤 イッシーたちの世代は「メインカルチャー」「カウンターカルチャー」みたいなものをどう捉えているんだろう。

石崎 昔ほどはっきりしたものじゃないかもしれないけど、メインカルチャー自体はあると思うんですよ。それに、カウンターカルチャーもなくなってはいないように思います。ただ、メインストリームとカウンターが混ざり合ってモザイク状になってるようなイメージがあるかな。

加藤 そうなんですよね。たぶんそうやと思う。

石崎 それに、ぼくら世代はどちらかというとサブカルチャーですよね。サブカルチャー最盛期、もしくはサブカルチャー的世界観の最後の世代って実感がある。どちらにせよ「メインカルチャーと真っ向から闘うぞ」ってものではなかったし、それも現代では混ざり合った感じがあるけど。

加藤 ぼくはヒッピー文化のカウンターカルチャーを間近で見てきたぶん、そんなに混ざっちゃっていいの?って思っているんだと思う。ぶつからなくていいの?って。

石崎 でも、例えば作り上げられたトレンドやブームだったり、大量消費を煽ったり、価値の画一化だったり、最近で言うと『SNS映え』みたいなものなんかについてもそうだと思うけど「それってほんとにいいものなの?」「惑わされてない?」って疑う人や異を唱える人たちはいまの時代にも少なからずいると思うんですよ。

そう思ってる人たちは共通した態度をとっていて、あくまでぼくの考え方ですけど、「メインを倒そう」でも「叶わないからわかる人だけのコミュニティをつくろう」でもなく、闘い方は変わってきてるんじゃないかなって思います。

加藤 どんな風に?

石崎 簡潔にいうと「自分でいいものをつくる」ってことかなって。「インディー」「オルタナティブ」「クラフト」「DIY」「スモール」あたりの言葉も混ぜ合わせてそうなっていってるんじゃないかなと思うんですが。そしてちゃんと、それを世の中に示そうと思っている。

加藤 なるほどね。

石崎 けど、難しいのが、最近はインディーやクラフトの力が大きくなってきて、そこにメインカルチャーが合流したり、言い方は悪いけど大きな力に掠め取られてる場面もあるんじゃないかなとも思います。日本における「クラフトビール」の呼称なんかまさにそうですよね。

加藤 そうだよ。資本主義の経済活動ってほんとに大きくて、言うたらブラックホールみたいに、なんでも回収しようとするじゃないですか。反体制で始まったものすらも飲み込んでしまう。

石崎 それに、もっと言うと「カルチャー」……ここで言うのは本来の意味ではなく、もっと狭義の、若者文化、新興文化的な意味のカルチャーですが、その言葉自体も資本主義的経済活動に回収されている場面があるのかなって。

加藤 きっとあるよね。

石崎 この前、Twitterでフォローしてる方が、東京のとある街の再開発を指して「カルチャーを過剰なほどありがたがってる」と評しているのを見て。この、「カルチャーを過剰にありがたがる」って表現がすごく面白いなって思ったんですが、これは、状況に閉口してるのと同時に、カルチャーがマスに回収されることへの忌避感でもあるのかなと思いました。

加藤 うん、わかる。渋谷でもそうだけど、都市開発なんてすごく難しい話で、それはせめぎあいなんですわ。カルチャーの良質な部分と、資本のパワーとが、お互いに利用し合うわけじゃないですか。ちゃんとぎりぎりでバランス取れてる分には美しいんですよ。資本側が強すぎると醜い。カルチャー側が強すぎると、今度は継続性の問題が出てくる。続かなくなってしまう。

石崎 そうですね。それに、この話の示唆深いところって、開発側が「カルチャー」を謳ってしまうことの危うさなんじゃないかな。さっきも話したけど、狭義のカルチャーって、やっぱりマス・大衆・マジョリティの自然状態とは別で生まれて育まれるってニュアンスを持ってると思うんですよ。で、その持ち味や個性は広まったら同時に薄まってしまう。人を集めるための甘美な誘い文句になったらそのカルチャー自体なくなっちゃうように思えるんです。

加藤 そうだね。

石崎 開発側が「リスペクトなくカルチャーを利用する」ってパターンは比較的容易に想像できると思うんですが、「過剰にありがたがる」パターンも確かにありそうだなと。どちらも実際にあるカルチャーを陳腐化させる行為なんだと思うし、その欺瞞にいろんな人が気づき始めてるってことなんじゃないかな。

加藤 けどさ、最終的にそこにお金を使う人がいるわけじゃない。「カルチャーを利用するな」「そのカルチャーは自分たちのカルチャーじゃない」という人がいくら言ったって、結局は大多数の消費行動が経済の中心だから。

石崎 そうですね、そうですよね。でもみんな、どこか変だなって気づいてるんじゃないかなとぼくは思うけどな。なんなら、昔よりも。

加藤 やっぱりね、自分の感覚を信じることが大事なんだよ。その消費行動はつくられたものではないか、それがほんとに自分が欲しいものかってことはちゃんと考えた方がいい。

石崎 うん、うん。ぼくは、自分で話していてこの話と「自分で文化を名乗らない」が繋がってる気がしてきました。

 

文化は社会を変えられるのか

石崎 今回もそろそろまとめですね。

加藤 どうですか?「文化」と「カルチャー」。

石崎 多様性は「違う我々で文化をつくっていくことなんじゃないか」って話はすごくよかったな。多様性って言葉についても、自分で腑に落ちないままに使いたくないって気持ちがあったんですが、これは気持ちのいい表現だなって。いいお土産になりました。

加藤 それはよかった。

石崎 あと、自分たちのやっていることについて気軽に文化やカルチャーと名乗りたくないという思いも最後で解き明かされた気がします。会社や事業がちょっとずつ大きくなっている過程だからこそ、まだまだゆっくり醸成されていくべきそれを、経済活動のための甘い謳い文句として使いたくないんだろうな。ジレンマを抱えていますね(笑)

加藤 ぼくからするとね、Backpackers’ Japanは文化活動と、資本主義をどう融合するかっていうチャレンジをしているように見えますよ。そんなにクレバーでいいの?って思ったりはするけれど(笑)

石崎 加藤さんはどうでしたか?

加藤 ぼくが一番興味があるのが、「文化が社会を変えられるのか、変えられないのか」っていうところ。そこがじつはいちばんディープなテーマやろなとは思ってる。まさにカウンターカルチャーに関わる話なんやけど、ぼく自身はそれを願ってるんです。文化で、社会を変えるってことを。

石崎 カウンターカルチャーの話も面白かったな。加藤さんのその思いも伝わりました。

加藤 文化はコミュニケーションのベースでしょう。だから、文化が持っているパワーって大きいはずなんだよ。人はコミュニケーションに飢えてるしね。けどね、社会はそう簡単にかわらない。政治だってそう。イッシーたちは自分たちが事業を続けて社会が変えられるって思う?

石崎 社会を大きく変えたり、体制を打ち負かしたりはできないけど、角度をちょっとずらすことはできるんじゃないかなと思っています。北に進路を取る船をたった何度かでも自分たちが思う方角に傾かせるっていうか。

加藤 面白いね、そっちは言い切ることができるんだね。

石崎 そうじゃないと自分たちで会社をやってる意味がないとも言えるかな。

加藤 いいなあ。ちょっとずつ、っていうのも大事だよね。スピードを求めてはいけないんやろうなっていうのはすごく思うね。だってさ、ちょっと前まで飛行機のなかでばんばんタバコ吸ってたじゃない。それが40年も経てばこんなに状況が違う。世の中はちょっとずつ変わっていくんだよ。

石崎 それも文化の話ですね。違う我々でちゃんと向き合ってつくっていく。

加藤 ほんとに遅いかもしれないけど、ちょっとずつよくなっていくんだろうということを信じるしかないよね。

石崎 そうですね。誰かがいいと言ったからいい、ではなく、ちゃんと話して、探って、自分たちに共通するいいものを見つけていかないといけない。

 

──対談を終えて

石崎

先日とあるPodcastを聞いていて「私の住んでいた街には文化がなかったんです」という発言を耳にした。ここでの「文化がない」は、伝統的なお祭りもなければ独特の風習もない、という意味合いで使っており、発話者の住んでいた街は新興の住宅地で「ただ人が住んでいるだけ」なのだという。

なるほど、ただ人が住んでいるだけでは文化は生まれないのか。そのような認識がされるのも、まあわかる。やはり文化は複数人で持ち合って生まれ、時間をかけて育まれ、独自のものとしてその土地に根付いていくものなのだ。少なくともそういったイメージがある。このへんの「文化」の使い方については今回の対談を経て理解度が増した。

一方で、今回文化について考えたことでさらなる疑問も生まれた。「文化」とよく比較される価値観のひとつに「ブーム」があると思う。「女子サッカーがブームではなく、文化になっていけるように」という有名な台詞もある。ここで言われる「文化」とはどういったもので、なぜ「ブーム」と「文化」は相反する概念とされているのか。

直観で言うならば、ここでいう文化は、(ブームと対照させて)「一過性のものではないもの」「定着したもの」のニュアンスを含んでいるはずである。では、なぜブームは定着しないのか。ブームが定着しないのではなく、定着しなかったものや、しなそうなものがブームと呼ばれている可能性はないか。逆に、急速に成立する文化というものはほんとうに存在しないのか……などなど、考え始めるとキリがない。

実際問題、「文化として定着させる」とは言うものの、具体的にはなにをどうしたらいいのだろう。大事なのは時間?共感?あるいは向き合い方や態度?執念や情熱のようなもの?ある程度理解が進んだからこそ、疑問はさらに深まるばかりである(答えのある方いたらぜひ教えてください)。

文化。今回の対談を終えてみてなお、不思議で、魅力的で、むずかしい言葉だなと思う。だからこそ、文化という言葉を巧みに利用せず、惑わされず、実際に身の回りに現れる多くの文化なるものを愛していけたらと思う。

 

加藤

祈り、のようなものかもしれないなあと思う。

年を重ねると、自分が体験したことや考えたりしていることってほんとうに自分だけのもので、誰かに伝えないと、それはぼくが消滅すると消えてしまうんだということにふと気づく。

もちろん生物としての情報は遺伝子として血脈の中で伝えられていくのは知っているけれど、昨日ぼくが見た六甲山に沈むあの夕陽の美しさや、67歳のパティ・スミスがステージで唾を吐いた時のあのカッコ良さは、言葉(あるいはそういうなにか)にしないと残らない。

べつにぼくのそういうものが残すだけの価値があるなんてぜんぜん思わないけれど、やっぱり誰かに伝えておきたいという願いのようなものが心のどこかしらにあって、しかもそれはどうも自分の妻や子どもにではなく、どこかの誰かでないとダメなようなのだ。

ただそれは誰でもいいというわけではなく、そういうことを真っ直ぐに話せる誰かでなくてはいけないわけで、そういう意味で、さまざまな偶然の中でうまく巡り会えた人とこういう機会を持てていることがなにより嬉しいことだし、それをこういう形でアーカイブとして眺めたとき、それを実現してくれたイッシーにだけではなく、こんな風にさせてくれた大きななにか(神さまといっていいのか?)に感謝したくなる自分がいて、それはちょっと不思議な気分だ。

そしてもうひとつ、これがいちばん大切なことかもしれないけれど、誰かと話すことによってはじめて見つかる何かがあるということ。

たとえば「多様性」が、「わたしはあなたのことをちゃんと見ないとわからないよ、と思い合うことからしかはじまらない」なんて、確かにぼくの中のどこかにあったはずのものなんだけれど、あのときあの場でイッシーと話していたから、もっと言えばそうでなければでてこなかった言葉のはずで、お互いにそういうことを発見できることが「話す」ことの面白さなんだと思う。

ひとりだけで何かを見つけるのはとても大変だし、じつはあなたとわたしのそういう「差異」こそがこの世界をつくりあげているんじゃないかとさえ思ったりする。

もう少し、この果実を求めない言葉の旅を続けたい。

 

(続く)