「本当はみんな、楽しそうなことが好きに決まってるんだ」

(2016.09.12)

 

糸井重里さんに会う練習をしている。

 

お店をやっているので、いつか何かのきっかけで、糸井さんがひょっこりやって来るということがあるかもしれない。それを思うと落ち着かない。いったいぼくはどのような態度で、どういった心持ちで糸井さんに会えばいいのだろうか。

 

糸井重里さんのことは子供の頃から知っている。

コピーライターという肩書きを認識できたのは高校生とか大学生になってからのような気がするが、そんなことを知らない小学生の僕にとっても糸井さんは十分な有名人であり、「テレビの人」だった。

MOTHERの人であり、芸能人つり選手権の人であり、なんというか面白おじさんだった。

 

大人になるにつれ、コピーライターとしての仕事を知り、糸井重里事務所の仕事に触れ、ほぼ日の記事に感心し、著書も幾つかめくってみるようになった。

しかし好きではあるものの、ファンかと言われるときっとファンではない。詳しいかと聞かれても、全然詳しくはない。書かれた一言にハッとしたことがあり、折に触れて思い出す一節がある。考えに詰まった時に今日のダーリンを読むと(ほー、なるほど)と凝りがほぐされる気分になる。そのぐらいのものだ。

すごく個人的な話をすると子供の頃、川の向こうに住んでいた物知りのおじいさんのよう。おじいさんのことは何も知らないが子供たちで遊びに行くといつもあらゆる分野の知見と発見をくれた。おじいさんは普段、仲間と碁を差したり、テレビを点けたまま新聞を読んだり、犬を撫でたりして暮らしている。

 

さて、ではそんな糸井さんに実際に会うとして、僕はどう挨拶をするべきだろう。

いっそのことファンであれば話は簡単だったかもしれない。ずっと昔から毎日ほぼ日見てますとか本は全部読んでますとか、或いは気恥ずかしくて言葉すら交わせないとか、きっとそういうことになるのだと思う。

 

 

「はじめまして、毎日というわけではないのですが、たまにふと思い出して今日のダーリンを読んでいます。深く納得した言葉も、いくつかありまして」

 

事実に即して言うならこんなところだろうか。しかし毎日読んでいるわけでもないのなら、伝えてどうするのだという気持ちもある。同じような人はごまんといるだろうし。その上僕は、その深く納得したはずの言葉を一字一句正確に思い出すことが、恐らく出来ない。

 

一面的で簡素な好きは容易く「なにも語れない」に置き換わってしまう。語れないというだけで、自分が得たあの納得や感心がまるでなかったようになってしまうのも妙に寂しい。

糸井さんに限った話ではなく、高橋源一郎さんも、奈良美智さんも、大泉洋さんも、西加奈子さんも、なんなら友達たちにだって、ぼくは知識を伴わない好きを本人を前にどう伝えいいか分からない。

 

そんなもどかしさを想像して、けれどもしかしたら何かちょうどいい表現があるのではと思いながら、今日のダーリンを読むときはいつも糸井さんに会ったときの挨拶を考えている、というわけである。

 

 

今日のダーリンに書かれていたのだと思う。僕が記憶している一節の中に「本当はみんな、楽しそうなことが好きに決まってるんだ」というのがある。これもやはり正確な言葉ではないらしく、検索しても出て来ないし、ぼくが思い込んでいるだけでもしかすると糸井さんの発言ですらないのかもしれない。

 

以前Facebookを使い「誰の言葉だったか、どなたか知りませんか」と質問を投げかけたところ「糸井さんの本で見かけたような」という人もいれば「(ザ・ブルーハーツの)ヒロトかマーシーが言いそう」という人もいた。「ムーミン谷の誰かが言っていた気がする」という人も登場した。

この文字列の背景に糸井重里とブルーハーツとムーミン谷が混在していると思うと物凄い。共通点があるのだろう。「今回の座談会にお呼びしたのはムーミンとムーミンパパ、そして甲本ヒロトさんと真島昌利さんです。」これはぜひ見てみたい。ほぼ日なら出来そうな気がする。

 

話を戻す。

 

とにかく、たとえうろ覚えであれ「本当はみんな、楽しそうなことが好きに決まってるんだ」という言葉に僕は何度も励まされて来た。そして今もなお大事にしている。

楽しそうなこと(または楽しそうに見えること)って、「楽しくはないけどもやるべきこと」に気圧されて結構肩身の狭い思いをしている。仕事じゃなくてもそうだし、仕事ならばなおのことといった具合に。

 

例えば問題を解決しようとする際、楽しそうな手段を選ぶことや楽しんで行うことはなんだか悪いことのような気がする。一方で「苦しくて地道な道こそが正しい」という風潮はなんの疑いもなく誕生し、エスカレートすると人を糾弾する種にもなる。

 

そもそも、方法の良し悪しと楽しいかどうかは別問題である。落ち着いて考えてみれば、より良くて、しかも楽しそうな選択肢というのは普通に出てくる。

「楽しそうなこと」はどうやら、楽観や油断、不謹慎、もしくは気楽などといった言葉と結びつきやすい。だから否定的に見られてしまうし、そういった疑いや妬みに対応すべき遠慮の影にさっと隠れてしまう。“楽しそう”だけど“後ろめたい”になってしまってうのは、それはもう素直に勿体ない。

 

「本当はみんな、楽しそうなことが好きに決まってるんだ」の一言は、その憂慮を取り除いてくれるもののように思う。「だから遠慮しなくていい」にも聞こえるし「素直に好きと言っていい」にも聞こえる。

 

だからつねに楽しそうな方を選んで行こう!と言いたいわけではない。ただ、楽しそうだからという理由で選択肢を減らす理由は全然ないし、むしろ周囲の人を巻き込む可能性がある選択だということを覚えていたい。

ついでに言うと、楽しいと「楽」は違う。楽しいことをしていくのはなかなかに大変であるし、楽なことが楽しくないことも往々にしてある。

 

楽しそうなことや楽しそうにしている人は魅力的である。変に天の邪鬼にさえならなければ、みんなが気付いているのだから話は難しくない。環境を待つのではなく、自覚的に楽しんでみることも大事。仕事が楽しくなるかどうかのハンドルは誰もが既に握っている。

 

(これが糸井さんの発言だとして、「はい、あとは自分で考えてね」って感じだから厳しいし優しいんだろうなあ、とここまで書いてふと。)

 

 

(文:石崎嵩人)