使う言葉に気をつける

(2016.09.29)

 

言葉の選択がなかなか厄介である。厄介というか、単純に難しい。

 

先日、大工のヒロさんが本間(代表)と話していて「有機物って、おれは“オーガニックな素材”って意味だと思ってた」と言ったらしい。

 

内装を決める際には素材を選ぶ必要がある。本間君はその際によく「有機物・無機物」の括りで話をするのだが、本来の定義というよりも比喩的に使っているところがあるのでヒロさんの認識との間に差があったのだろう。

話をして行く中でどうにも話が噛み合わず、掘り下げて聞いてみたところ有機物が指すものが食い違っていたと気付いた、ということのようだ。

 

 

最近特に、使う言葉に気をつけようと思いがある。気を遣おうというよりも、「気をつけよう」。誰にでも伝わりやすい言葉を選ぶ、とか、相手を刺激しない話し方をする、ということとは根本的にちょっと違う。

 

例えば「はあ、疲れているな」と言ってみて「ああ疲れているんだ」と思い当たることがある。

口に出しているので思っていて当然と言ってしまえばそれまでなのだが、言葉にすると急に感覚が実在する。

 

思考と言語は影響し合っているので、思考が言葉をつくるだけではなく、言葉が思考を確定させるケースがある。

実際の感情に近い的確な言葉で確定されるのなら問題はないが、そうならない場合…要は実際の感情とちょっとずれて確定されてしまうこともある。

 

なので、自分が使う言葉に、とりわけ誰かに伝える言葉の選択になるべく気をつけようと思っている。

 

本間くんとヒロさんの話のように物事の説明についてだったらまだいい。正確な語で話せていなくても、分からなかったら聞けばいいし、足らなかったら補えばいい。気をつけてさえいればそれで認識を擦り合せて行くことができる。

それよりも難しいのは感情や心情、自分の中にあるものを説明する時である。

 

個人的な感覚だけど、感情を伝えるときって、だいたいの場合は同じ分野にある、より手に取りやすい使い慣れた言葉で会話をしてしまっている気がする。それが思っていることの8割ぐらいの意味しか表せていいなくても、状況には合っているし相手にも一応伝わる。

例をあげると「後ろめたい」が「やりづらい」になったり、「慎重に決めたい」が「ひとまずいい」になったり、「心細い」が「嫌だ」になったり、「もっと頼って欲しい」が「信頼出来ない」になったりする。

 

けれど、(物の説明とは違って)本来思っていること使った言葉がいくらずれていても、ほとんどの場合深く聞き直されることはなく、そのまま話が進んでしまう。そのうち自分でも発された言葉の方を信用してしまう。思考が言葉に引っ張られる。

 

さらに、人と話していると「引っ込みがつかなくなる」ということも起こり得る。

「私は怒っています」と言ってしまったが本当はそこまで怒ってもいなかった。失敗を反省して欲しかっただけだった。けれどそれが遣り取りで連続するうち、自分が意図していなかった方向に話が進んでしまったし、私は怒っている人にならなければならなかった。

こういったことはわりと結構な頻度である。大なり小なり、だれでも経験していると思う。

 

引っ込みがつかなくなると、ますます話す言葉がずれていってしてしまうし、感情が更に強く固定されてしまう。本当はどんなことを思っていたのか忘れてしまうこともある。着地点の見えていない会議の時など、話の筋まで見失う。

 

相手も自分も、冷静でいれば(もしくは冷静に戻れるなら)あんまり問題はないけど、そうでない時が問題だ。

使う言葉に気をつけると書いたけれど、もっというと、それよりも大事なのは「しまった」と思ったあとに発言を取り下げることの方かもしれない。

 

言葉を選ぶことは、その過程自体が深く考えることに繋がる。

人と話すのはぜんぜんうまくなくても、自分のことを正しく知るためにも、せめて使う言葉は吟味したいなあということを思います。

 

 

(東日本橋の現場は設備工事からの引き渡しが終わり、一階と地下の内装工事がもうすぐ始まります)(一ヶ月前もそんなようなことを書いた気が)

(文:石崎嵩人)